20話「霊鳥」
春の名残が遠ざかり始めた頃、エレオノールたち五人は貸切の外洋帆船に乗り込み、長い船旅へと身を投じた。
潮と風に揺られ続ける一か月の航海は、決して優雅なものではない。
甲板に立てば日差しに肌を焼かれ、夜になれば冷たい湿気が骨に染みた。
波に合わせて軋む船体の音は眠りを浅くし、誰もが知らぬうちに疲労を溜め込んでいった。
やがて船はハチミア島へ入港し、港町カルーシカの石造りの岸壁が視界いっぱいに広がった。
“燃える石”〈サルファー〉の瘴気を含んだ風が喉の奥をかすかに刺激し、すでにこの地が火の山と共にあることを否応なく悟らせる。
滞在中の三日間、エレオノールは宿の一室を借り切り、床いっぱいにマリアンヌが製作した〈火山環境防護服〉を並べた。
全部で七。縫い目や留め具を確かめながら、一つ一つに『風水凝冷滴』を慎重に詰めていく。
並行して、アルマンたちは市に出掛け、ラバを買い求めた。
頑丈な脚と落ち着いた目を持つ個体を選び、荷を載せても歩調を乱さぬか確かめる。
四日目の夜明け。
空が白むころ、一行は出発した。
革底の厚いブーツに脚絆、手には樫の杖。
ラバの背には〈火山環境防護服〉と予備の背嚢、薪、水、食料が積まれている。
〈火山環境防護服〉は全身を覆う分厚い構造で、腹部には火魔法の魔石が埋め込まれていた。
内側の機構を入れれば、冷えた空気の中でもじんわりと体温が戻ってくる。
さらに背嚢と接続された『風水凝冷滴』の循環装置が備わっており、冷却と呼吸の両方を担う仕組みだ。
火山に挑むためだけに考え抜かれた、マリアンヌ渾身の実用一点張りの装備だった。
「ここがタンジガロ火山の麓ですか。土の色からして、エランソワとはまるで違いますね」
アルマンが乾いた空気に目を細める。
赤茶けた地面はところどころ黒く焦げ、草もまばらだった。
数刻ほど歩き、サンロージ集落に着くと、案内兼運搬人を探した。
紹介されたのはエレオノールと同じ年頃の青年で、日に焼けた肌と、火山を見慣れた者特有の落ち着いた眼差しを持っていた。
「マッサンと申します。山のことなら任せてください」
風向きと噴煙を確かめるマッサンの視線は真剣で、軽口一つない。
しばし空を仰いだ後、短く頷いた。
「今日は山が静かです。油断は禁物ですが、おそらく行けるでしょう」
そのまま歩き続け、昼前には森林帯へ入った。
夏の盛りで空気は重く、汗が止まらない。
外套はラバの荷に回され、水袋がみるみる軽くなっていく。
「無理は禁物です。喉が渇く前に水を飲んでください」
マッサンが何度も声を掛ける。
「そうね。荷の水がなくなっても私が『散水華』で出せますから、倒れないように飲むようにしてくださいましね」
そうは言っても、エレオノールの魔力は温存したい。
皆、言葉少なに頷き、歯を食いしばって歩いた。
夕方、木々が疎らになり始めた場所で足を止めた。
谷ではなく、風が抜ける斜面を選び、野営の準備を進める。
地面は昼の熱を失い、触れると冷たい。
日が沈むと急に気温が落ち、全員が〈火山環境防護服〉を身に着け、温暖機構を作動させた。
焚き火の赤と、魔石の温もりが、ようやく体を休ませてくれる。
「山は昼と夜で顔を変えます。だから、夜は動かない。これが鉄則です」
マッサンの言葉に、誰も異を唱えなかった。
翌日は夜明け前に起床した。
暗闇の中で装備を確かめ、ラバと予備の背嚢を置き、温暖機構を作動させたまま登り始める。
やがて日が昇るころには木々は消え、地面は黒い砂礫に変わった。
足を置くたび、靴底越しに生ぬるい熱が伝わってくる。
「ここからは、瘴気が出ることがあります。息が苦しくなったら、すぐに言ってください」
マッサンがそう言い、さらに進むと、岩肌が赤茶け、黄色い<サルファー>が付着し始めた。
鼻の奥が焼けるように痛み、喉が乾く。
マッサンが手を上げる。
「瘴気です。〈火山環境防護服〉で呼吸してください。」
全員が温暖機構を切り、『風水凝冷滴』を循環させる。
スーツ内に氷のような冷気が吹き抜け、熱気と〈サルファー〉の臭気が押し流される。
肺を満たす冷たい感触に、誰もがほっと息をついた。
「私は瘴気が出ると布に酢を含ませたもので呼吸していたのですが、この服は凄いですね」
だがマッサンは首を振る。
「ですが、瘴気は完全には防げません。風が止まれば、危険です」
視界の先では、火口から吐き出される巨大な黒煙が天を衝いていた。
瘴気の流れを読み、時に立ち止まり、時に遠回りしながら、道なき急斜面を進む。
熱風に押し返されるたび、足取りは重くなり、全身に疲労が溜まっていく。
そうして昼前、一行がついに火口付近へ辿り着いたときだった。
エレオノールが父ギヨームから預かり、帯刀しているミスリル双剣の片刃――〈ハクヨウ〉が、ほのかに淡い光を放ち始めた。
エレオノールは不思議に思って柄に手を掛け、〈ハクヨウ〉を抜き放つと、噴煙の向こう――高く澄んだ空を、七色に輝く鳥影が横切るのが見えた。
ピュイイイイィィィ!!
火の川の赤と〈サルファー〉の瘴気の上を、あり得ないほど澄み切った色彩が、悠然と舞っていた。
「あれは……燃えている? いや、光っているな。なんと見事な……」
「あれが“霊鳥”です。この島に生まれて育ちましたが、私も初めて見ました」
誰もが足を止め、言葉を失い、ただその光景を見つめていた。
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それは、鳥の形を借りた神気そのものだった。
熱風と瘴気が荒れ狂う火口にあって、その周囲だけが静謐に澄み渡っている。
翼が翻るたびに大気は整えられ、無秩序な熱が法則性を持つ光へと書き換えられていくようだった。
羽の一枚一枚は鋭い輪郭を持ちながら、その色は一刻として留まらない。
燃えるような赤が金へと溶け、次の瞬間には吸い込まれるような蒼へと転じる。
色彩は名を与えられることを拒むように移ろい続け、見る者の視神経を幻惑した。
猛火の中心にありながら、その姿に宿るのは熱量よりも凍てつくような静寂だった。
羽ばたきに音はなく、力みすら感じさせない。
内側に閉じ込められた莫大な光は、捉えようとした刹那に位置を変え、手の届かぬ高みへと逃げていく。
生き物というよりは、世界を構成する光の粒子が、一瞬だけ鳥の形に整列したかのような錯覚を抱かせた。
それを見た者は、恐怖や称賛を抱くより先に身体が硬直する。
熱も疲労も忘れ、理解が追いつかないまま、形にならない感嘆を喉の奥に張り付かせ、ただその光の軌跡を追い続けるしかなかった。
霊鳥は空を舞うのではない。
空そのものが、ほんの一瞬だけ意味と形を与えられ、そこに顕現しているかのようだった。
「あれが……“霊鳥”……いえ、“不死鳥”?」
マリアンヌは、確信と戸惑いが入り混じった声で漏らした。
そして、記憶の奥に刻み込まれた文章を、そのまま引き上げるように言葉を継ぐ。
「“この世に一羽のみ在り、光を司る。終わりが満ちれば自らを焼き、灰の中から再び生を得る”――伝記に記されている、不死鳥の伝説です……。不死鳥が、エレオノール王女様が仰るタラスクに対抗し得る鍵というのであれば……納得できます」
しかし、マリアンヌの表情は険しい。
実在を見た昂揚より先に、この存在をどう御すべきかという問いが脳内を支配したからだ。
「あれが不死鳥ならば……文字通り不死の鳥。どうすれば……」
その瞬間だった。
「上だ! 避けろ!」
天空から赤黒く焼けた巨大な岩石が、流星の速度で降り注ぐ。
ヴァンサンは叫び、ヴァンサン以外の五人は岩陰へ滑り込み、身を伏せた。
遅れて爆風が背中を殴り、火口の砂礫が雨のように叩きつけられる。
地を割る轟音が連続し、着弾した岩から熱が飛沫となって跳ね、周囲の岩肌を白く焼く。
間髪入れず、今度は沸騰した熱湯の雨が叩きつけられた。
次いで、炎を纏った真空の刃が唸りを上げて飛来し、ヴァンサンに殺到する。
ヴァンサンは大盾を押し立て、足を踏み抜くように耐えたが、不死鳥は重力を無視した加速で距離を詰めてくる。
鋭利な鉤爪が空を裂き、大盾の表面を激しく削り取る。
ヴァンサンは最小限の体捌きで受け流し、反撃に渾身の力で大盾の縁を不死鳥の胴へ叩き込んだ。
だが、手応えは返ってこない。
大盾は、揺らめく光の残像を空しく切り裂いただけだった。
アルマンが放った矢も、必中の軌道で吸い込まれ、しかし触れた瞬間、矢は光の中を抜けて虚空へと消えた。
「攻撃が当たらないだと!」
不死鳥は再び高く舞い上がると、今度はヴァンサンの足元から炎の槍を噴き上げた。
地面が裂け、熱が噴き出す。
ヴァンサンは辛うじて躱し、防ぐものの、火傷と裂傷は確実に増えていく。
連撃は途切れない。
魔法と鉤爪が交互に噛み合い、休む隙を奪ってくる。
岩陰に残された五人は、ただ歯噛みしながらヴァンサンの背中を見守るしかなかった。
どれほどの時間が経ったのか。
ヴァンサンは膝が震え、大盾を支える腕が軋み、鎧は血で濡れている。
限界は近かった。
「ヴァンサン! そろそろ背嚢の『風水凝冷滴』が持たなくなります! 撤退します!」
マリアンヌの声にヴァンサンが答える。
「全員では逃げ切れません! 私がここで食い止めます! 先に撤退してください!」
その言葉の意味は、誰の目にも明らかだった。
このまま全員で留まれば、下山まで『風水凝冷滴』が持たず、瘴気に呑まれて全滅する。
苦渋の選択を迫られたそのとき、アルマンが叫んだ。
「あの不死鳥、噴煙を避けて飛んでいませんか?」
視線を向ければ、不死鳥は濃密な灰の渦を避けるように、澄んだ空間を選んで旋回している。
マリアンヌの思考が火花を散らした。
欠片が噛み合い、解が形を得る。
しかしその間にも、ヴァンサンの体は削られ続けていく。
「エレオノール王女様、先ほどお持ちの剣が光っていましたが、あの不死鳥に見覚えはありませんか?」
「いいえ。あのようなオパールのように光る鳥は初めてみましたわ」
オパール。
見る角度ごとに色を変える遊色の石。
光を閉じ込めてしまう性質を持つ結晶。
その名がマリアンヌの脳内に閃光を走らせた。
「シャトネ殿、明るい色の大きな石を探してください! 不死鳥がヴァンサンを襲う瞬間、頭上に投げて『地砕罠』を! リュシールさん、その地点に『螺旋息吹風』を! エレオノール王女様! ヴァンサンの元へ走り、不死鳥が止まった瞬間、最大魔力の『翠玉流転晶』でオパールを生成してください!」
指示は一瞬で共有された。
アルマンは鍛錬によって、地面に手を触れずに『地砕罠』を使えるようになっていた。
リュシールは『息吹風』を竜巻状にした『螺旋息吹風』を覚えていた。
エレオノールが走り、ヴァンサンの背後へ滑り込むと、ヴァンサンは大盾を構え、鉄壁の構えを取った。
不死鳥はヴァンサンに向けて数条の光の魔法を放つ。
雨のように降り注ぐ魔法をヴァンサンは全て大盾で受ける。
不死鳥は、止めを刺すように急降下を開始した。
彗星のような光の軌道が一直線に落ちてくる。
――今だ。
アルマンの腕がしなり、白銀の岩が突進してくる不死鳥の進路上――ヴァンサンの頭上へ放たれた。
「『地砕罠』!」
岩は空中で爆ぜ、微細な灰となって周囲を覆う。
「『螺旋息吹風』!」
竜巻が立ち上がり、灰を巻き上げながら、不死鳥とヴァンサンたちを包み込む。
灰が、不死鳥の輪郭へまとわりつき、透明な存在を“この世界”へ引きずり下ろす。
不死鳥が身を翻す。
だが、逃げ場はない。
渦が逆巻き、光の翼を引き裂くようにして中心へと引き戻した。
「『翠玉流転晶』!」
エレオノールの声とともに、七色の奔流は一点へと圧縮された。
光は圧し潰されるように凝縮し、やがて乳白の塊へと固まる。
それは虹を閉じ込めた巨大なオパールだった。
半透明の石の奥に、不死鳥の姿が封じ込められている。
しかし封印は静寂ではない。
石中で光が膨れ上がり、広げた翼が内側から押し返す。
そのたびに乳白の表面へ虹色の裂け目が走り、遊色が震えるように明滅した。
――まずい!
それを見た横から、影が躍り出た。
いつの間に走り込んだのか、マリアンヌが〈火山環境防護服〉から背嚢を外し、結晶に向けて、残る『風水凝冷滴』を一気に噴射した。
白い霧が結晶に纏わりつき、瞬く間に氷の膜が厚みを増す。
光を閉じ込める結晶構造を持つ原石は、凍結でさらに硬くなる。
しばらくすると、やがて永遠を生きる不死鳥は、宝石と氷の牢の中で完全に静止した。
マリアンヌは膝をつき、肩で息をした。
喉が焼けるように痛い。
それでも口元は笑っていた。
「やりましたね。これで、不死鳥は動けないと思います」
マリアンヌは額の汗を拭い、確信に満ちた笑みを浮かべてエレオノールを振り返った。
「さあ、エレオノール王女様。このオパールを割って、不死鳥をお召し上がりください」




