19話「準備期間」
この世界において、モンスターとは単なる凶獣ではない。
本能のまま、より高い魔力を持つ存在を捕食し、その魔力を取り込みながら己を強化し続けてきた存在だ。
そうした捕食と進化の連鎖が長く積み重なった果て、世界はやがて一つの均衡点へと至る。
およそ百八十年に一度――
食物連鎖の頂点に立つ存在として、“厄災”と呼ばれるモンスター、タラスクが姿を現す。
それは人間であろうと、他のモンスターであろうと区別なく襲い、世界中に甚大な被害をもたらしてきた。
現代において、高い魔力を持つ人間がほとんど存在しないのは偶然ではない。
かつて現れた者たちは、その力ゆえにタラスクや強大なモンスターに狙われ、捕食され、歴史の表舞台から姿を消してきたのだ。
エランソワに王立学術院が設立されたのも、この厄災に備えるためであった。
世界の理を解き、魔力を研究し、来たるべき周期に対抗する――
その使命のもと、王立学術院は長らく、タラスクの再来を「十年後」と見積もってきた。
しかし、エレオノールの胸に芽生えた予感は、それを否定していた。
ドラゴン、ヒポグリフ、オピオタウロス――強大なモンスターたちの出現と活発化。
世界を巡る魔力の流れはすでに歪み始めており、厄災は一、二年のうちに姿を現す。
そのとき、モンスターが存在しないはずのエランソワであっても、決して無関係ではいられないだろう。
タラスクを倒すために、エレオノールが辿り着いた答えはひとつだった。
自らがナタリーに伝わる“炎石を吐く怒れる山”に棲む存在を食すこと。
それがタンジガロ火山を指すのだとすれば、道はあまりにも過酷である。
噴火を繰り返す火山帯。
極寒と灼熱が同居する苛烈な環境。
そして、命を蝕む瘴気。
登攀は極めて困難であり、生半可な覚悟や装備では命を落としかねない。
マリアンヌは学術的見地から、登山に耐えうる装備案を提示した。
だが、その成否を分ける最大の要因は、装備でも理論でもない。
――エレオノール自身の魔力量。
そして、幾多の困難の先でその存在に辿り着けたとして、タラスクを倒す鍵となるほど強大な未知の存在を、いかにして屠り、喰らうのか。
世界は静かに、しかし確実に、次の局面へと進み始めている。
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タンジガロ火山への出発は、春の終わりを目標に定められた。
それまでの限られた時間を、誰一人として無為に過ごす者はいない。
エレオノールは、海路確保のため船の手配を父ギヨームに依頼すると同時に、自身の魔力をさらに高めていた。
オピオタウロスの肉の残りを食らい尽くし、〈ケーヴ〉で塩漬けにされていたドラゴンの臓器にも手を伸ばす。
味わうためではない。ただ魔力を得るためだけに噛み砕き、飲み下していく。
かつての“グルメお嬢様”の面影は薄れ、その行為はもはや食事というより、己を武器へと作り替えるための作業に近かった。
ヴァンサンは近衛騎士団長デュランと合流し、守備隊と近衛騎士団による合同訓練に入った。
主眼はヴァロリアの城壁に設置されたカノン砲の運用練度の向上であり、対大型モンスター戦を想定した配置、連携、再装填の速度が徹底的に叩き込まれていく。
アルマンとリュシールは変わらずラ・ロシュ館に身を置き、魔法の鍛錬と新たな術式の模索を続けていた。
基礎を疎かにせず、同時に可能性を広げる――その積み重ねこそが、来たる未知との戦いにおける生存率を高めると、二人は理解している。
マリアンヌは王立学術院の研究室に籠もりきりとなった。
寒冷、高熱、そして目に見えない瘴気。
火山という極限環境を想定し、それらすべてに対応する全身装備――〈火山環境防護服〉の製作に、全力を注いでいた。
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タンジガロ火山への出発準備が進む冬のある日、王都ヴァロリアのラ・ロシュ別邸の厨房には、午後の淡い光とともに、溶けたバターの甘い香りが満ちていた。
その中央で、エレオノールは背筋を真っ直ぐに伸ばし、いつものように優雅な所作で菓子作りに取りかかっている。
今日作るのは、決まった菓子ではない。
砂糖そのものをどう使えば、料理が変わるのか――その試みだった。
エランソワの食卓は、滋養と秩序を重んじる。
甘味は脇に追いやられ、菓子は余興として扱われてきた。
だがエレオノールは知っている。
甘さが、人の心を最初に解くことを。
幼い頃、花梨のジュレを作ったとき、泣いてばかりいた少女が夢中でそれを食べてくれた。
その光景は、今も鮮明に残っている。
もし甘さが、料理に興味のない者の心をここまで動かせるのなら。
それは、エランソワの料理そのものを別の場所へ連れていける力なのではないか。
エレオノールは、かつて甘さが届いた感触をなぞるように、考え、手を動かしていた。
銅鍋に水とバターを落とすと、ほどなくバターは角を失い、湯の中で黄金色の輪となってゆっくりと溶け広がる。
細かな泡が立ち始めたところで火を弱め、小麦粉を一息に加えて木べらを差し入れると、小麦粉は水分を吸って重くまとまり、鍋の中でゆっくり転がる。
そのまま練り続けると、次第に生地となって一つに収まり、鍋底をなぞった跡に、薄い膜だけを残すようになる。
火から下ろして鉢に移した生地は、湯気が落ち着くのを待つ。
そこへ卵を加えると、生地は抵抗を失い、艶を帯びていく。
木べらを持ち上げると、生地は重みを保ったまま、ゆっくりと落ちる。
この整えられた生地を焼き板の上に、丸く、厚みを持たせたまま置き、炉に入れる。
生地は静かな熱の中で少しずつ膨らみ、表面を張らせながら丸みを保ったまま高さを増していく。
やがて淡い焼き色が乗ったところで炉から取り出し、十分に冷ましてから、横に刃を入れる。
切り口に溶かしたバターを塗り、砂糖を振る。
上下を合わせ、表面にも薄くバターを伸ばしてから、さらに砂糖を重ねる。
再び炉へ戻すと、砂糖は熱を受けて溶け、細かく泡立ち、やがて薄く固まっていく。
取り出された表面には淡い飴色の艶が宿り、甘く香ばしい匂いが厨房を満たす。
その間にクリームを用意する。
これは、牛乳と卵、砂糖を合わせ、弱い火で練り上げたものだ。
とろりとまとまったそれは布で漉され、なめらかさを保ったまま冷まされている。
完全に冷えた生地をもう一度割り、内側へそのクリームをたっぷりと流し込む。
上側の生地をそっと戻すと、外は乾いて香ばしく、内には淡い甘みが収まった。
アフタヌーンティーの時間、別邸のテラスではシャルルがショコラを用意して待っていた。
銀の盆に乗せられた菓子が運ばれてくると、シャルルは感嘆の吐息とともに目を見開いた。
「これは……見たこともない菓子ですね。表面が宝石のように光っています」
「砂糖を活かしたお菓子を作ってみましたの。どうぞ召し上がれ」
皿の中央に置かれた菓子は、砂糖の衣を纏い、午後の光を受けて控えめに輝いている。
ナイフを入れると、表面は軽く音を立てて割れ、内側の柔らかさがはっきりと伝わった。
ひと口。
薄くカラメレゼされた表面は軽やかに砕け、続いて生地の素朴な香ばしさが広がる。
中のクリームは、口に含んだ瞬間に乳の甘みがとろりと溢れ出し、それでいて後味は春の微風のように穏やかだった。
「外側は薄い飴のようにカリカリとしているのに、内側は驚くほど軽くてふんわりとしています。そしてこの中のクリーム、これほど濃厚なのに、とても上品な余韻ですね」
シャルルは夢中で二口目を食べ進め、感銘を受けたように吐息をついた。
その仕草はどこか愛らしく、皿に残る欠片さえ惜しむように眺めている。
「お姉様、この菓子は何という名前なのですか?」
「そうね……《ププラン》というのはどうかしら。ですがシャルル、これだけで終わりではありませんわ」
エレオノールは悪戯っぽく微笑むと、シャルルの手元のショコラを指差した。
「それを、《ププラン》にかけてご覧なさいな」
言われた通り、シャルルはショコラを菓子の上から丁寧に注ぐ。
温かく、濃厚で黒光りするショコラが、砂糖の衣を纏った《ププラン》の凹凸をなぞり、ゆっくりと流れ落ちていく。
琥珀色の生地に深い褐色が重なる様は、それだけで一つの芸術品のようであった
一口食べた瞬間、シャルルの瞳がひときわ大きく輝く。
「これは……別次元の味わいです。ショコラのほろ苦さが砂糖の甘さを引き立てて、口の中で温かいショコラと冷たいクリームが溶け合っていく。香ばしさ、甘さ、苦味、そのすべてが完璧に調和して、止まらなくなる美味しさです」
思わず熱を込めて語り、シャルルは照れたように笑った。
エレオノールは満足げに頷き、別邸の外に広がっているであろう王都へ視線を向けた。
「シャルル、この《ププラン》を領民に売り出してはどうかしら。ショコラの原料であるカカオは高価で、民の手には届かないでしょう。けれど、アメリから届くこの砂糖なら、少しの贅沢で手が届く価格になるはずですわ」
エレオノールは指を一本立て、続けた。
「民には、砂糖の衣を纏っただけの素朴で甘い《ププラン》を。そして貴族たちには、その上にショコラをかけた贅沢を愉しんでもらう。こうしてエランソワに砂糖を広めたいのです。甘みを加えるだけで、料理は“お腹を満たすための作業”ではなくなります。煮るか、焼くか、それだけで終わっていた料理に、考える余地が生まれる。塩と香草だけで十分だと思い込んでいた人たちに、味は工夫できるものだと知って欲しいのですわ」
シャルルは深く頷いた。
「砂糖の普及を、この魅惑的な味で加速させるわけですね。これは民も喜び、貴族たちもこぞって買い求めるでしょう。早速、信頼できる商人に話を通し、売り出させることにします」
テラスには、甘い砂糖とショコラの香りが重なり、新しい流行の予感が漂っていた。




