18話「予感」
一か月後、エレオノールはアルマンとリュシールを伴い、王立学術院を訪れていた。
白灰色の石で組まれた学術院の建物は、長い年月を経てもなお威厳を失っていない。
高い天井を持つ回廊を進むにつれ、乾いた羊皮紙と薬草、わずかに金属を思わせる匂いが鼻をくすぐり、ここが知と研究の積み重ねられた場所であることを主張していた。
マリアンヌの研究室の扉を開くと、室内にはすでに二人の来客がいた。
机の傍らで本棚を眺めていたヴァンサンと、窓際の椅子に腰を下ろす元王立学術院長、ダミアスである。
「お久しぶりですわね」
エレオノールが挨拶すると、マリアンヌは立ち上がり、穏やかに一礼して微笑んだ。
ヴァンサンも姿勢を正し、「ご無沙汰しております、王女殿下。お変わりなきご様子で何よりです」と落ち着いた口調で応じる。
ダミアスはゆっくりと立ち上がり、簡潔ながらも深く頭を下げた。
その眼差しには、再会を喜ぶ色が宿っている。
一通りの挨拶が済むと、自然と話題はそれぞれの近況へと移っていった。
離れていた時間のあいだに何が起き、今どこで何を担っているのか──互いに言葉を交わしながら、情報を分かち合っていく。
ヴァンサンは王命を受け、新設される王都ヴァロリア守備隊の隊長に任ぜられたという。
城門と街路を結ぶ新たな防衛体制を構想し、志ある者を募るための選抜と訓練計画に追われる日々だ。
盾を軸とした集団防衛の練成は厳格だが合理的で、王都の警備は着実に強化されつつあるらしい。
マリアンヌは王立学術院に戻り、上級顧問として専用の研究室を与えられたと語った。
今はそこで魔道具の研究に没頭し、旅の中で得た知見を理論へ落とし込む作業に明け暮れているという。
その言葉の端々には、研究者としての充実と高揚が滲んでいた。
アルマンとリュシールは、ラ・ロシュ館で魔法の鍛錬の日々を送っていると近況を明かした。
個々の魔法の変化、お互いの魔法を組み合わせた連携など、新しい魔法の可能性を模索しているという。
まだ試行錯誤の途上ではあるが、互いの呼吸を合わせることで、確かな手応えを感じ始めているようだった。
互いの近況を語り合い、研究の進み具合やそれぞれの旅路で経験した出来事を一通り分かち合うと、次第に言葉は途切れていった。
壁際の書棚に並ぶ分厚い書物と、窓から差し込む柔らかな光だけが、その場を支配している。
その沈黙を受け止めるように、エレオノールは背筋を正した。
「本日、皆様にお集まりいただいたのは、私の予感についてお話しするためです」
その声音は落ち着いていたが、確かな緊張を含んでいた。
「私は今、三つの大きな存在を感じています。そのうちの一つは、近いうちに空に現れ、エランソワを含むこの世界を喰らいつくすでしょう」
その言葉が落ちると同時に、研究室の空気が目に見えて張り詰めた。
マリアンヌは息を詰め、ヴァンサンは眉をひそめる。
「お二人は、このような強大なモンスターをご存じありませんか?」
問いかけに、マリアンヌは視線を伏せ、しばらく思索に沈んだ。
やがて何かに思い至ったように顔を上げる。
「その存在が現れるのは、いつ頃なのでしょうか?」
「おそらく、一、二年後と思いますわ」
その返答を聞いた瞬間、ダミアスは口を閉ざした。
深く刻まれた皺の奥で、思考が巡っているのがわかる。
長い沈黙ののち、低く、重い声が室内に響いた。
「それは、“タラスク”のことでしょう」
その名が出た瞬間、マリアンヌは反射的に目を伏せた。
ダミアスは視線を遠くに向けたまま、淡々と語り始める。
「“顔は獅子のごとく、歯は剣のごとく鋭く、鬣は馬のごとく垂れ、切り立つ背は斧のごとし。鱗は錐のごとく硬く、六本の脚は熊の爪を持つ。尾は蛇のようにしなり、甲羅は亀に似ている”」
それは、伝記として読まれ、絵で描かれてきた存在だった。
だが、語られるたびに現実味を帯び、部屋の中に異様な輪郭を結んでいく。
「タラスクは“厄災”とも呼ばれています。伝記によれば、およそ百八十年ごとに現れるようです。海の底で眠り、目覚めると空を泳ぐように飛び、雷を操って人間もモンスターも狩り尽くす。一年ほど世界を荒らした後、逃げるように再び海へ戻るそうです」
今を生きる者の中で、それを実際に見た者はいない。
それでも、その名だけは消えずに残っていた。
「言うことを聞かぬ子供を脅すための“ババウ”という名なら、皆様も耳にしたことがあるでしょう。次の周期は十年先だと考えられていました。しかし、エレオノール王女様がそうおっしゃるのなら、一、二年後なのでしょう」
ダミアスはゆっくりと研究室を見回した。
「この王立学術院は、本来、タラスクに備えるために設立されました。しかし、この百七十年で組織は硬直し、旧態依然としたものになってしまった。中には、タラスクは神話にすぎず、現れるはずがないと考える者すらいます」
ダミアスは机の上の古い記録に指を置いた。
「かつて、雷を操る一族が存在したようですが、タラスクに喰われたとされています。おそらく、その一族は雷のモンスターを食べたのでしょう。以前、エレオノール王女様の『煉溺焼夷弾』を目の当たりにし、さらにマリアンヌからアメリでの話を聞いて確信しました」
ダミアスは言葉を区切り、続けた。
「モンスターは魔力が高い存在を食うことで自らの魔力を高めており、現在の人間の魔力が低いのは、タラスクや強大なモンスターが、魔力の高い人間を狩り尽くしてきたからでしょう」
全員が驚く中、話を続ける。
「タラスクは、ただ破壊するために現れるのではなく、魔力を持つ存在同士が喰らい合い、十分に強くなったところを喰う。そのために、百二十年ごとに姿を現すのではないでしょうか。アメリで強大なモンスターが現れ始めたのも、ここ最近のこと。十年早いですが、およそ周期と合致します」
さらに、低い声で語る。
「この国にモンスターがいないのは、過去の厄災の際、タラスクを呼び寄せぬよう狩り尽くしたからです。しかし、エレオノール王女様が、エランソワも襲われるとおっしゃるなら、そうなるのでしょう。ヴァロリアの城壁にはカノン砲が据えられていますが、どこまで通用するかは分かりません。まだ先の話だと考えられていたため、砲門の数も不足しています」
しばし沈黙が流れた後、ダミアスはエレオノールを見据えた。
「タラスク出現を予感されたエレオノール王女様は、タラスクを倒す術も見えているのではありませんか?」
「ええ」
エレオノールははっきりと頷いた。
「その存在――ダミアス先生がおっしゃる“タラスク”を倒すには、三つの存在の内の一つを私が食べなければなりません。それはナタリーの“炎石を吐く怒れる山”にいますわ」
ダミアスは顎に手を当て、考え込むように言った。
「なるほど。しかし、そうなると疑問が残ります。なぜタラスクは、そのナタリーの“炎石を吐く怒れる山”にいる存在を襲わないのか。そもそも、その存在はモンスターなのでしょうか。いずれにせよ、そこへ通常の人間が辿り着くことは不可能でしょう」
研究室には、言葉を失った沈黙が重く降り積もっていた。
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ダミアスは顎に手を当て、しばし思案するように視線を落としたのち、口を開いた。
「エレオノール王女様がお話しになったナタリーの“炎石を吐く怒れる山”ですが……おそらくは、ハチミア島にそびえるタンジガロ火山のことではないかと存じます」
そう言って、ダミアスは机の引き出しから古地図を取り出した。
羊皮紙は長い年月を経て角が擦り切れ、ところどころに補修の跡がある。
ダミアスはそれを広げ、細い指先でエランソワ南東の海域をなぞった。
「こちらです」
示された先には、ナタリー本土から南西に離れた島と、その島の東に赤い顔料で描かれた山の印があった。
「ハチミア島は、古くから交易と漂着が交わる要衝でした。定められた航路を行き交う商船だけでなく、嵐に翻弄され、流れ着いた者たちもまたこの島に辿り着いたのです。その結果、東西さまざまな文化や知識が積み重なってきました」
ダミアスは一度言葉を切り、地図から目を上げる。
「その山の麓には、今なお“霊鳥”を崇拝する人々が暮らしていると伝えられております」
霊鳥――
その単語が落ちた瞬間、部屋の空気が目に見えぬほどに張り詰めた。
誰もが口を挟まず、言葉の余韻だけが重く残った。
「その霊鳥は、単なる神話上の存在ではございません」
ダミアスの声は淡々としていたが、揺るぎはなかった。
「山とともに在り、噴火と鎮静を繰り返す火の巡りを体現する存在として語られております。タンジガロ火山が周期的に炎を吐くのは、霊鳥が死をもたらすと同時に、新たな命の場を整える兆しであると。噴火ののちに生まれる肥沃な大地は、その再生の証とされてきました」
学者として積み重ねてきた知見が、その言葉の端々に滲んでいる。
エレオノールは地図へ視線を落とし、赤い山の印を指先でそっとなぞった。
「……ですが」
その一言で、空気が引き締まる。
ダミアスはわずかに眉を寄せた。
「タンジガロ火山は、現在も活動を続けております。登攀は極めて困難でしょう。山道は険しく、場所によっては火が川のように流れていると聞きます。昼は焼けつくような熱、夜は骨身に染みる寒さ。さらに、目に見えぬ瘴気が常に漂い、近づく生き物を拒むと――」
言葉が重なるごとに、部屋の空気は確実に沈んでいった。
「仮にその霊鳥がモンスターであるとして、そのような環境下で果たして生存し得るのか……」
誰も答えなかった。
希望と同時に、越えるべき壁の高さが、はっきりと示された瞬間だった。
「それなら……登れるかもしれません」
静寂を破ったのは、控えめながらも芯のある声だった。
皆が振り返ると、マリアンヌが銀縁眼鏡を指先でゆっくりと押し上げ、瞳を鋭く光らせながら一歩前へ踏み出していた。
「エ、エレオノール王女様の『風水凝冷滴』を応用すれば……防熱と防寒を兼ねた装備が作れるはずです」
言葉を選びながらも、その声には抑えきれない熱が混じる。
「『風水凝冷滴』は、冷気を凝縮した液体です。これを〈飛翔嚢〉と同じ要領で背負い……少しずつ全身を覆うスーツへ循環させれば……火の川の熱を遮断できます」
マリアンヌは一度息を整え、続けた。
「さらにスーツの内側に、火魔法の魔石を組み込めば……夜間の冷え込みにも対応できます。こ、呼吸もスーツ内で循環させれば……瘴気を直接吸い込むことはありません。吐く息だけを外へ逃がす構造にすれば……理論上は安全です。問題は――」
マリアンヌは視線をエレオノールに向ける。
「途中で『風水凝冷滴』と、魔石に込める魔力を……補充できるかどうか。つまり、エレオノール王女様の魔力に、大きく依存します」
ダミアスは小さく息を吐き、「なるほど」と感嘆を含ませて頷いた。
「こ、航路の問題もあります。ハチミア島へ船を出せるのは、早くて春以降。山の寒さを考慮するなら、夏に到着できる日程が最も現実的でしょう」
沈黙の中で、計画は少しずつ形を帯びていく。
困難で、危険で、それでも確かに“道”は示された。
「エレオノール王女様、やりますか?」
ヴァンサンの声にエレオノールは小さく微笑み、迷いなく頷いた。
「また、皆の力を貸してくれるかしら?」
その声に恐れはなく、青から赤へ、そして緑から新たに加わった茶へと溶け合う四色の瞳が――
静かな焔を抱き、美と畏怖を同時に放ちながら、揺るがぬ意志を映し出していた。




