17話「凱旋」
エランソワのル・ノームル港に船が入ると、街はたちまち往来の音を取り戻した。
荷を下ろす人足の掛け声、馬車の軋む音、岸壁を打つ波の音が折り重なり、王都の入口であることを否応なく思い出させる。
王都へ続く石畳の道を進む馬車の窓から、エレオノールは久しぶりに見る城壁と尖塔を眺めていた。
夕刻の光を受けた白い石は柔らかく輝いている。
旅の終わりを告げるはずの光景だったが、胸に広がるのは安堵よりも、静かな緊張だった。
王都に到着して父ギヨームと再会した五日後、正式な報告の場が設けられた。
エレオノールはアメリ国王アガート・ルネ・ド・ヴァロワ・アメリウス二世の親書を携え、ギヨームとともに謁見の間へと進む。
高い天井から差し込む光が、磨き上げられた床に反射し、玉座の前に並ぶ二人の影をくっきりと浮かび上がらせていた。
エランソワ国王レオン・フィリップ・ドゥ・ヴァロワ三世は、親書に目を通すと深く頷く。
しばしの沈黙の後、国王は顔を上げ、よく通る声で告げた。
「アメリ国王の言葉、確かに受け取った。そして何より、そなたの働きは我が国にとって大きな意味を持つ」
その一言で、謁見の間に控えていた重臣たちの視線が、一斉にエレオノールへ向けられた。
「功績は、然るべき形で示されねばならぬ。式典を開き、称号と勲章を授けよう」
宣言は簡潔でありながら、揺るぎのない重みを伴っていた。
後日、式典は王宮の大広間で盛大に執り行われた。
白と金の装飾布が高い天井から垂れ、燭台の灯が磨き抜かれた床に揺れる。
正装に身を包んだ貴族や武官たちが整然と並び、場には自然と背筋の伸びる緊張感が満ちていた。
玉座の前へ進み出たエレオノールは、優雅に膝を折る。
「エレオノール・ド・ラ・ロシュ。そなたを名誉宮廷王女に叙し、その忠誠と功績を国王の名において讃える」
称号が授けられ、続いて名が一人ずつ呼ばれていく。
アルマンは王宮侍従に任じられ、エレオノールの側仕えとなった。
リュシールには終身年金が与えられ、王宮女官としてエレオノールに仕えることが命じられた。
マリアンヌには王立学術院上級顧問の地位と、研究資金の提供が約束された。
ヴァンサンには王都守備を担う新設の守備隊が与えられ、その隊長職と終身年金が授与された。
さらに国王は、新たな勲章の創設を宣言した。
「聖白百合騎士団勲章を、ここに創設する」
静まり返った広間で、国王自らがエレオノールに聖白百合騎士団騎士団長勲章を授ける。
続いてエレオノールはその権限をもって勲章を分かち与えた。
アルマンとヴァンサンには聖騎士大十字勲章を。
マリアンヌには上級将校勲章を。
リュシールには勲章メダルを。
名が呼ばれるたび、広間には抑えられた拍手が広がっていく。
栄誉は、エレオノール一人に留まらなかった。
名誉宮廷王女となったエレオノールの家族にも、国王の恩寵が及ぶ。
父ギヨームは枢密院顧問に叙され、聖レオン騎士団最高勲章を受けた。
母アデルは王妃宮廷女官長に任じられ、慎み深く頭を垂れた。
弟シャルルには王宮侍従の地位が与えられ、緊張を滲ませながらも誇らしげにその場に立っていた。
荘厳な音楽が広間を満たし、拍手と祝意が重なり合う。
この日を境に、エレオノール・ド・ラ・ロシュという名が、王国において特別な意味を持つ存在になることを、誰もが疑わなかった。
ただ一人、勲章を胸に受けたエレオノールだけが、祝福の熱からわずかに距離を置いていた。
視線は歓声ではなく、高い天井の奥、光の届かぬ陰へと向けられている。
世界は、静かに形を変えつつある。
その兆しが自分の立つこの場所から広がっていることをエレオノールは確かに感じていた。
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式典と祝宴会を終えた夜、エレオノール一家は王都に構えるラ・ロシュ家の別邸に身を落ち着けていた。
重厚な石造りの建物は、王宮の華やぎとは異なる静けさに包まれている。
分厚い扉の向こうでは、外界の音が遠のき、廊下を進む足音さえも柔らかく吸い込まれていった。
暖炉に火が入り、居間には揺らめく橙色の明かりが満ちていた。
外套を解いたエレオノールが椅子に腰を下ろすと、向かいに立っていたシャルルが一歩前へ進み、背筋を正して深く頭を下げる。
「名誉宮廷王女殿下。このたびのご帰還、そしてご活躍、心よりお祝い申し上げます。殿下のお働きにより、ラ・ロシュ家の名はさらに高まりました。家族として、弟として、深く感謝いたします」
言葉遣いは儀礼に則ったものだったが、声の端々には、抑えきれない誇らしさが滲み、緊張のせいか、耳の先がわずかに熱を帯びていた。
シャルルが顔を上げると、エレオノールは一瞬きょとんと目を瞬かせ、それから小さく苦笑する。
「やめてちょうだい、シャルル。そんなふうに言われると、まるで他人行儀ですわ」
「ですが……」
「私はラ・ロシュ家の人間として、当たり前のことをしただけです。どんな称号をいただこうと、私はお父様とお母様の娘で、あなたの姉。それは変わりませんわ」
そう言って、エレオノールは軽く身を乗り出し、シャルルの額に指先をそっと当てた。
シャルルは一瞬驚いたように目を見開き、それから幼い頃を思い出したように、照れた笑みを浮かべる。
そのやり取りを、暖炉の向こうからギヨームが穏やかに見守っていた。
「……レア。お前が誇らしいのは事実だ。アメリの強大なモンスターを討伐しただけでなく、砂糖の取引枠を確保した手腕も見事だった。だが、それ以上に、無事に戻ってきてくれたことが何より嬉しい」
「ありがとうございます、お父様。私も、お父様とお母様、シャルルと、またこうして過ごせることが一番嬉しいですわ」
そう答えるエレオノールの声は、式典の場での凛と張り詰めた響きとは異なり、柔らかな温度を帯びていた。
暖炉の火が静かに爆ぜ、夜はゆっくりと更けていく。
久しぶりに家族だけで過ごす時間が、穏やかに流れていった。
翌朝、別邸の食堂には澄んだ朝の光が差し込み、白いクロスの上に淡い影を落としていた。
エレオノールとシャルルが向かい合って席に着くと、給仕が銀のポットと小ぶりの陶器のカップを運んでくる。
ポットから注がれた液体は深い褐色で、とろりとした重みを伴ってカップに満ちていった。
給仕は細身の撹拌具を差し入れ、手首を利かせて素早くかき混ぜる。
粘りのある液面が渦を描き、やがて表面にきめ細かな泡が立ち上がった。
湯気とともに甘く香ばしい匂いが広がり、油分を含んだ濃厚さが、香りの奥にくっきりと残っている。
「これは……?」
エレオノールが興味深そうに覗き込むと、シャルルが少し誇らしげに胸を張る。
「最近、王宮で流行っている《ショコラ》と呼ばれる飲み物です」
エレオノールは両手でカップを持ち、慎重に一口含んだ。
舌に触れた瞬間、思わず目を見開く。
「甘い……。それに、とても濃厚ですわ」
液体は滑らかでありながら重く、舌にまとわりつくような油分がはっきりと残る。
強い甘さの奥に、ほのかな苦味と焙煎された豆の香りが重なり、飲み込んだあとも長く余韻が続いた。
ギヨームは、慎重に一口だけ口に含み、眉をひそめて肩をすくめる。
「私には少々甘すぎるな」
「まあ、あなた。私はとても気に入りましたわ」
アデルはうっとりと目を細め、両手でカップを包み込むようにしながら、ゆっくりと味わっている。
「シャルル、これは何から作られていますの?」
「カカオという豆と、砂糖だと聞いています」
「そう……。この飲み物は、きっと滋養にも娯楽にもなりますわね。これを領民の皆さんにも飲んでいただけたら素敵ですのに」
エレオノールの言葉に、シャルルは慌てて首を振った。
「とんでもありません。カカオも砂糖も非常に高価で、一部の者しか口にできません。……でも、お姉様ならきっとお気に召していただけると思って」
「ありがとう、シャルル」
エレオノールは微笑み、温もりの残るカップを胸元へ引き寄せた。
しばらくして、シャルルが思い出したように言う。
「今日もお泊まりになりますよね。アメリでのお話を、もっと聞かせてください」
「ええ、もちろん」
「うむ。たまには良いだろう」
ギヨームも頷き、食卓には穏やかな空気が満ちた。
窓の外では、王都の朝が動き始めている。
差し込む光の中で、エレオノールは泡の残るショコラを眺め、小さく微笑んだ。
久しぶりに家族と同じ食卓を囲むこの時間が、何よりも貴重なものであることを、改めて噛みしめながら。




