16話「帰路」
エランソワへの帰路につく定期船は、波を切りながら西へ進んでいた。
夏の名残をとどめていた空気はすでに薄れ、潮風にはかすかな冷えが混じりはじめている。
甲板に立つと、陽は低く、光は柔らかくなり、海面には鈍い銀色の揺らめきが広がっていた。
船体に伝わる揺れは穏やかだが、季節が確実に一歩進んだことを、空の色と空気の重さが静かに告げている。
船倉には、今回の旅を象徴する積み荷が丁寧に収められていた。
ひとつは、アメリ国王からラ・ロシュ領へ贈られた砂糖の木箱が三箱。
新設される取引枠の記念と餞別として用意されたものだ。
木箱の蓋には王家の刻印が焼かれ、内側には湿気を防ぐための布と紙が何重にも施されている。
エランソワへ持ち帰られた砂糖は、やがて商人たちの手を通じ、甘味という文化を新たな段階へ押し上げることになるだろう。
もうひとつは、解体されたオピオタウロスの肉と、ヒポグリフの残りの肉である。
それらの肉は、マリアンヌが即席で作成し、エレオノールが『風水凝冷滴』を込めた魔導具〈凝冷ケーヴ〉に収められていた。
内部は氷を生じさせるほどではないが、肉の鮮度を保つには十分な冷気が、絶え間なく安定して循環している。
甲板の隅で、アルマンは一人、手すりに肘を預けて海を眺めていた。
潮の香りを含んだ風が外套の裾を揺らし、遠ざかるアメリの大地は、すでに薄靄の向こうに溶けている。
視界から陸影が消えるにつれ、アルマンの意識は、自然と自身の内側へ向かっていった。
この旅が終われば、再びエランソワの日常へ戻る。
だが、同じ場所に戻るとしても、同じ自分でいられるとは思えなかった。
アメリで過ごした日々は、確かにアルマンの中に、消えない何かを残していた。
生まれ育った家のことが、ふと脳裏に浮かぶ。
シャトネ伯爵家は、古くから王家に仕える名家である。
アルマンはその三男であり、家督を継ぐことも、領地運営に深く関わることもなく、自由である代わりに、どこか足場の定まらない立場で生きてきた。
幼い頃から森での狩りに親しみ、獣の足取りや風の流れを読むことには、誰よりも長けていた。
鋭い観察力と冷静な判断力、そして弓の腕前は、伯爵である父も認めている。
狩猟会でその技を目にしたギヨーム公爵が、「この青年は、獣の動きの先を見る目を持っている」と評してくれたこともある。
だが、それでも評価は狩りの場に留まっていた。
政治の場へ進む兄たちとは違い、アルマンに与えられる役割はなかった。
長男は家督を継ぐ。
次男は王宮の役職へ進む。
三男は、家の名を汚さずに生きればよい。
口に出されることはなくとも、その格差を、アルマンははっきりと理解していた。
だからこそ、何か父や家の役に立つ道はないかと、声に出すことなく思い続けてきたのである。
そんな折に届いたのが、ギヨーム公爵からの推薦だった。
エレオノールの使節団の同行者として、アルマンの名が挙げられたという知らせを受けたとき、胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは、家の肩書きではなく、自分自身を見ての評価だった。
参加を断る理由はなかった。
人生で初めて得た、自分自身への正式な依頼であったこと。
狩猟会で目にしたエレオノールの品格と、誰に対しても分け隔てなく接する姿勢に、自然と敬意を抱いていたこと。
そして何より、三男という立場だからこそ与えられた自由を、自らの役割へと変えたいと願ったこと。
その選択は、間違っていなかった。
今回の旅で、アルマンは自らの役割を与えられ、これに応えることでアメリ国王から金鷲勲章を授けられた。
名誉としても、功績としても、これ以上ない評価だった。
自らの腕を示せば、求めてくれる人がいる。
帰国したら、王宮で職を探してみよう。
そんな決意が胸の内で輪郭を持ちはじめていた。
そのとき、足音が近づく気配がした。
「アルマン」
振り返ると、そこに立っていたのはエレオノールだった。
初秋の風に金髪を揺らしながら、いつもと変わらぬ落ち着いた微笑を浮かべている。
「少し、お話ししてもよろしくて?」
「はい。もちろんです、エレオノール様」
エレオノールは穏やかな声音で切り出した。
「もしよければ……この先、ラ・ロシュ家に仕えてみませんこと?」
アルマンは言葉を失った。
一瞬、海の音だけが耳に残る。
呆然と立ち尽くすアルマンを見て、エレオノールは急かすこともなく、静かに待っていた。
やがてアルマンは背筋を正し、深く一礼する。
「……身に余るお言葉です。このアルマン・ド・シャトネ、以後はラ・ロシュ家のため、そしてエレオノール様のために、この弓も、この身も捧げる所存です。どうか、お仕えすることをお許しください」
言葉は、考えるよりも先に口をついて出ていた。
その声に、迷いはなかった。
この旅を通じて、エレオノールの気品と勇気に、アルマンは知らぬ間に強く感化されていた。
王宮に職を探そうと思ったのも、エレオノールのように、誇り高く生きたいと願ったからだ。
そのエレオノールからの誘いは、自分が認められた証に他ならない。
これ以上の栄誉は、考えられなかった。
「感謝しますわ。アルマン」
その一言が、胸の奥に染み渡る。
これからは、エレオノールを主人として仕える。
それが、シャトネ家の名を誇りに変える道だと、アルマンは確信していた。
-----
船上での宴は、穏やかな熱を保ったまま続いていた。
ヒポグリフの肉はエレオノールの手によって次々と調理され、焼き、煮込まれ、香草とともに皿へと姿を変えていく。
気がつけば、残ったのは骨と溶けきった脂の名残だけであり、ヒポグリフはアメリと船上で食べつくされることになった。
オピオタウロスの肉も同様に減ってはいったが、さすがに一か月の航海ですべてを食べ尽くすことはできなかった。
その後、上陸の日、積み下ろしの最中にその残りの肉が収められた〈凝冷ケーヴ〉を目にした船員たちは、惜しむような視線を向けることになった。
ある日の穏やかな昼下がり。
波も風も落ち着いた時間帯、甲板の隅で腕を組み、どこか納得のいかない表情を浮かべているエレオノールに、マリアンヌが気づいて歩み寄った。
「エレオノール様……な、何かお考え事ですか?」
「ええ、少し。どうにも腑に落ちなくて」
エレオノールはそう答えると、足元の甲板へ視線を落とした。
日差しを受けた木目の隙間に、細かな砂が入り込んでいる。
マリアンヌは首をかしげ、控えめに問いかけた。
「さ、差し支えなければ……お聞かせいただけないでしょうか?」
「土魔法が使えるようになったのですれど……どうにも、使い道が思い浮かびませんの」
その言葉に、近くにいたリュシールとアルマンも自然と足を止めた。
「でしたら――」
マリアンヌの目がわずかに輝く。
「皆さまの前で……一度、お見せいただけないでしょうか」
エレオノールは少し考え込み、それから小さく頷いた。
「そうですわね。では、こちらで」
甲板の中央へと場所を移す。
周囲には特別な円陣ができるわけでもない。
ただ、自然と視線が集まった。
エレオノールは軽く息を整え、両手を甲板へ向けてかざす。
「深壌に根付く土の精霊と、静寂に宿る水の精霊よ。凝集の力をもって流転の相を与え、形なき恵みを我が掌に結べ。巡るものは留まり、留まるものは巡り、その均衡をもって結晶をこの場に顕せ――『翠玉流転晶』!」
詠唱が終わった瞬間、甲板の上でごとりと鈍い音がした。
木の板の上に転がっているのは、拳ほどの大きさの透明な石。
陽光を受けて、その内部で淡い光が折り重なるように反射している。
「……これは?」
思わず、マリアンヌが声を漏らした。
「おそらくダイヤモンドですわ」
エレオノールは肩をすくめるように答える。
「ダ、ダイヤモンド!? それは……とんでもない価値があるのでは」
「ええ。ルビーでもエメラルドでも、同じように作れますわ。でも……」
エレオノールは石を見つめ、困ったように眉を寄せた。
「半日も経てば消えてしまいますの。跡形もなく」
その場に、沈黙が落ちた。
「それでは……」
「ええ。売ることも、加工することもできませんわ。いよいよ、何の役にも立たない魔法になってしまいましたわ」
エレオノールは苦笑したが、その表情には冗談めかした明るさはなかった。
それ以降、エレオノールの表情は日に日に険しさを増していった。
甲板に立っていても、食卓を囲んでいても、どこか意識が遠くへ向いているようだった。
ある夕方、リュシールは意を決したように声をかけた。
「お嬢様。最近、少しお疲れではありませんか」
エレオノールは一瞬だけ視線を逸らし、思案するように答えた。
「まだ、はっきりとは言えないのだけれど……ただ、予感のようなものがありますの。確信できるようになったら、そのときに話しますわ」
それ以上、リュシールは踏み込まなかった。
胸の奥に、重たい不安だけが残る。
その空気を断ち切るように、マリアンヌがぱんと手を打った。
「そうです! ま、魔力を測りましょう!」
「……またですか?」
アルマンが答える。
「はい! 前回から、だいぶ時間が経っていますので……!」
そう言い切ると、マリアンヌは胸元から〈魔力計〉を取り出した。
水晶盤と針が陽光を受けてきらりと光る。
「さあ、順番に測りましょう。ひ、比較対象があった方が……異常値も映えますので!」
「映え……?」
まずはリュシールが、恐る恐る指を盤に置く。
針は滑らかに動き、ぴたりと止まった。
「“八”、ですね!」
「“八”……?」
「すごい! い、以前の二倍です……! モンスターを食することで、身体的な成長や魔力上昇が起きると思っていましたが……やはりその通りですね!」
マリアンヌは興奮した様子で頷き、視線が無意識にリュシールの胸元へ落ちる。
「……なるほど」
「ど、どこを見ているのですか」
「次、シャトネ殿……お願いします!」
「え、わ、私もですか……?」
「はい……! 前回は“一”でしたが、きっと、上がっているはずです……!」
半ば押されるようにアルマンが指を乗せる。
「……“四”ですね。すごい……! よ、四倍になりました!」
「よ、よくわかりませんが、良かったです……」
アルマンが胸を撫で下ろす間もなく、マリアンヌの視線は最後の一人へ向けられた。
「それでは――本命です」
その一言で、場の空気がわずかに張り詰める。
エレオノールはゆっくり進み出て、指先を盤の中央へ置いた。
次の瞬間、針が弾かれたように跳ね上がった。
「……え?」
一度止まりかけ、さらにぐっと押し上げられる。
「ちょ、ちょっと待ってください……ええと……」
マリアンヌは魔力計を覗き込み、声を裏返らせた。
「“二十一”!?」
全員が息を呑んだ。
「に、二十一……?」
「ま、待ってください……いえ、壊れていません。針の挙動も正常です。これは……」
マリアンヌは顔を上げ、興奮と困惑が入り混じった表情で言い切った。
「二十一は……ヒポグリフ級です。大型モンスターと同等、場合によってはそれ以上……!」
甲板に、先ほどまでとは質の違う沈黙が落ちた。
潮の音だけが、やけに大きく聞こえる。
エレオノールは魔力計を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じる。
その数値が示す意味を。
その危うさを。
そして――自分がすでに“あちら側”へ足を踏み入れていることを。
エレオノールだけが、はっきりと感じ取り始めていた。




