第九十七話 天下は誰を望む
第九十七話 天下は誰を望む
義元本隊における、確かな変化の兆しが見えた頃、保護圏内の各地では、これまで以上に、拠点との連携を、確かなものにしようとする動きが、活発化しつつあった。ある日、拠点近くで、これまでにない規模の、豪族会議が、開かれることとなった。
この会議は、尾張、美濃、伊勢、そして、三河の一部からも、代表者が集まる、まさに、東海地方全域を、視野に入れた、大規模な集まりであった。私は、以前と同様、この会議への直接の参加を、慎重に、辞退することとした。
「殿、此度も、御出席は、御遠慮なさいますか」藤吉郎が、確認を求めた。
私は、これまでの経験を踏まえ、迷わず答えた。「うん、参加しないでおくよ。みんなが、自由に、話し合ってほしいから」
(訳:俺がいると、みんな、変に気を遣うだろうし、それに、俺自身、そういう大きな場に出るのは、正直、まだ、緊張してしまうんだ)
会議には、それぞれの地域の代表者たちが、活発に、意見を交換していった。四天王は、それぞれの立場から、この議論を、丁寧に取りまとめていった。
会議の終盤、ある美濃の豪族が、これまでにない、重要な発言を行った。「これほど広範な地域が、こうして、確かな連携を築けているのは、まさに、信照様の御庇護あってこそにございます。我らは、これより、より一層、確かな結束をもって、信照様に従って参りたく存じます」
この発言に、会場全体から、深い賛同の声が上がったという。ある伊勢の代表者は、こう続けた。「まことに、その通りにございます。信照様がおらねば、東海は、いまだ、混乱の渦中にあったことでございましょう」
そして、この会議の最後に、誰かが、静かに、しかし確かな重みを持って、こう告げたという。「信照様は、天下を望まぬ。されど、天下が、信照様を、望んでいるのやもしれぬ」
この言葉は、会議に集まった、すべての代表者たちの、深い共感を呼び起こすこととなった。この一言は、瞬く間に、保護圏全体へと、確かな形で、広まっていくこととなるのである。
私は、その頃、拠点で、静かに、この会議の様子を、四天王からの報告を通じて、受け取っていた。「殿、此度の会議、まことに、実り多いものとなりました」一益が、報告に来た。
私は、その報告に、深い充実感を覚えた。「そうか……。みんなが、こうやって、自分たちで、しっかりと話し合って、決めていけるようになったのは、本当に、素晴らしいことだよな」
一益は、続けた。「加えて、殿。会議の場で、まことに、印象的な言葉が、語られたようにございます」
「どんな言葉だ?」私は、興味を惹かれて尋ねた。
一益は、慎重に、その言葉を、私に伝えた。「『信照様は、天下を望まぬ。されど、天下が、信照様を、望んでいるのやもしれぬ』――そのように、語られたとのことにございます」
私は、その言葉に、思わず、大きな衝撃を受けた。「え……。それって、俺が、天下を、統べるべきだって、そういう意味なのか?」
(訳:本当に、俺、そんなこと、全然望んでいないのに……。天下とか、そんな大それた話、正直、想像もしていなかったよ)
一益は、静かに答えた。「殿。この言葉の、真の意味を、それがしも、正確には、測りかねます。されど、確かなことは、殿の存在そのものが、もはや、東海地方の枠を、超えつつあるという事実にございましょう」
私は、その説明に、深い動揺を覚えた。(俺は、ただ、みんなを守りたいだけなのに……。天下とか、そんな大それたこと、絶対に、望んでいないのに)
その日の夜、私は、寝所で一人、この日の話について、深く考え込んでいた。窓の外に広がる、夜の静けさを見つめながら、私は、これまでの日々を、改めて振り返っていた。
(俺は、ただ、逃げたかっただけだったのに。それが、いつの間にか、こんな風に、大きな期待を、背負わされるようになるなんて……)
その素朴な戸惑いと、拭いきれない不安を胸に、私は、なかなか寝付けぬまま、長い夜を、過ごすこととなった。この「天下は誰を望むか」という問いは、後に、物語の、より大きな展開の中で、さらに、その重みを、増していくこととなるのである。
翌朝、私は、お市と、久しぶりに、拠点の縁側で、静かな時間を過ごすこととなった。「兄上、少し、お疲れのご様子ですね」お市が、心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
私は、少し戸惑いながらも、正直な想いを、打ち明けることにした。「実は、昨日の会議で、少し、気になる言葉が、あったんだ」
お市は、興味深そうに、耳を傾けた。「どのような、お言葉でございましたか」
私は、慎重に、その言葉を、お市に伝えた。「『信照様は、天下を望まぬ。されど、天下が、信照様を、望んでいるのやもしれぬ』――そんな風に、言われたらしいんだ」
お市は、しばし、静かに考え込んだ後、優しい声で答えた。「兄上。それは、まことに、兄上らしい評判だと、わたくしは、思います」
「え?」私は、その言葉に、少し驚いた。
お市は、続けた。「兄上は、これまで、決して、御自身の欲のために、動かれたことは、ございませんでした。ただ、目の前の、困っている方々を、救いたいという、その一心で、これまでの道を、歩んでこられたのでございます」
私は、その言葉に、深い感慨を覚えた。「そうだよな……。俺は、本当に、それだけの想いで、ここまで、やってきたつもりなんだ」
お市は、静かに微笑んだ。「その素朴な御心が、これほど多くの方々の、心を惹きつけているのでございましょう。天下という言葉に、あまり、御自身を、縛られすぎませぬよう」
私は、その言葉に、深く救われる想いがした。「ありがとう、お市。お前と話すと、いつも、少し、心が軽くなるよ」
(訳:本当に、お市には、いつも、助けられてばかりだよな)
お市は、その言葉に、優しく頬を染めながら、微笑んだ。「兄上のお力になれているのなら、これに勝る喜びはございません」
その日の朝、私は、少しだけ、心の重荷が、軽くなったように感じていた。(俺は、これからも、天下がどうとか、そんなことは、あまり考えずに、ただ、みんなを守ることだけを、大事にしていこう)
その決意を、改めて、胸に刻みながら、私は、その日の、穏やかな日常へと、戻っていったのだった。




