第九十六話 今川の疲弊
第九十六話 今川の疲弊
保護圏の発展が、これまで以上に確かなものとなり、遠く甲斐、越後にまで、その評判が届くようになる中、駿府の義元本隊は、これまでの、長きにわたる尾張への執着の代償を、これまで以上に、重く実感せざるを得ない状況に、追い込まれつつあった。
義元は、自らの居城で、これまでの尾張攻略にかかった、様々な費用と、その成果を、改めて、丹念に見直そうと試みていた。彼の手元には、これまでの、幾度にもわたる、兵の派遣に関する記録が、山積みになっている。
「これほど、多くの兵と、これほど、多くの物資を投じたというのに……」義元は、深いため息をついた。「得られたものは、ほとんど、何もないではないか」
義元は、傍らに控える重臣に、率直な問いを投げかけた。「これまで、尾張へ投じた費用、そして、それによって得られた利益を、正直に、比較してみよ」
重臣は、慎重に、これまでの記録を整理しながら答えた。「義元様。正直に申し上げますと、投じた費用に対し、得られた成果は、あまりにも、乏しいものにございます。むしろ、駿河、遠江、三河の統治に、少なからぬ悪影響が、及んでおる次第にございます」
義元は、その報告に、深く考え込んだ。「悪影響とは、いかなることか」
重臣は、続けた。「尾張への、度重なる兵の派遣により、他の領国での、農地の整備や、経済的な発展が、いささか、後回しになっております。加えて、兵たちの間にも、長引く不毛な戦への、確かな疲労が、蓄積しつつあります」
義元は、その言葉に、深い動揺を覚えた。彼が、これまで、東海の巨大な独立国家という、壮大な構想を掲げてきたのは、駿河、遠江、三河、そして尾張の、四つの国を、一つにまとめ上げることで、経済的にも、軍事的にも、最強の国家を築くためであった。しかし、その構想の、まさに要石であるはずの尾張が、いつまで経っても、彼の手をすり抜け続け、それどころか、他の領国の統治にすら、確かな悪影響を、及ぼし始めていたのである。
「初めて、この構想そのものを、見直す必要が、あるのやもしれぬ」義元は、独り言のように、そう呟いた。
この言葉は、義元にとって、これまでの、確固たる信念を、大きく揺るがすものであった。しかし、目の前の、動かしがたい現実――兵站の消耗、他の領国への悪影響、そして、いつまで経っても、決着のつかない、尾張という地――それらは、義元自身に、これまでの方針を、根本から見直すことを、強く迫るものであった。
数日後、義元は、これまでにない、慎重な軍議を開くこととなった。彼は、これまでの重臣たちに、率直な想いを、こう告げたという。
「これまで、尾張の完全平定に、我が構想のすべてを、賭けて参った。されど、この現実を見る限り、いま少し、慎重な判断が、必要なのやもしれぬ」
この義元の言葉は、これまで、強硬な尾張攻略を、主張し続けてきた重臣たちにも、確かな衝撃を与えることとなった。ある重臣は、こう漏らしたという。「義元様が、ついに、あの尾張への執着を、緩められるおつもりなのか……」
拠点においては、私は、こうした義元本隊での、深刻な議論など、まったく知らぬまま、日々の平穏な暮らしを、続けていた。ある日、一益が、この義元の変化についての、貴重な情報を、私にもたらした。
「殿、義元様が、これまでの尾張攻略の方針を、初めて、見直そうとしているとの兆候が、確認されております」
私は、その報告に、思わず、深い安堵を覚えた。「そうか……。義元さんも、ついに、この状況を、見直そうとしてくれているんだな」
(訳:本当に、これで、少しでも、平和な時間が、これから、長く続いてくれたらいいんだけどな)
一益は、慎重に続けた。「されど、殿。義元様が、完全に、尾張への執着を、捨て去ったわけでは、まだ、ございませぬ。今後の動向、注意深く見守っていく必要が、ございましょう」
私は、その言葉に、深く頷いた。「そうだよな……。まだ、油断はできないんだろうな」
その日の夕刻、私は、四天王を集め、この義元本隊の変化について、改めて話し合う機会を持った。「みんな、今川方に、変化の兆しがあるって聞いたけど、これから、俺たちは、どう対応していけばいいと思う?」
藤吉郎が、丁寧に答えた。「殿。これまで通り、決して油断することなく、しかし、無用な敵対心も、あえて示すことなく、静かに、この平和を、守り続けていくのが、最善かと存じます」
私は、その説明に、深く頷いた。「そうだな……。俺たちは、これからも、変わらず、みんなを守ることだけを、大事にしていこう」
その夜、私は寝所で一人、この日の議論を、静かに振り返っていた。(義元さんも、きっと、色々な葛藤を、抱えているんだろうな。俺たちだけじゃなくて、義元さんにとっても、この長い戦いは、きっと、辛いものだったんだろう)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。この、初めて見えた、義元本隊の、確かな変化の兆しは、後に、より大きな展開へと、繋がっていくこととなるのである。




