第九十三話 敵は誰だ
第九十三話 敵は誰だ
保護圏内に、次々と新たな避難民や、外部からの帰属を望む勢力が加わる中、今川方の軍監は、これまで積み上げてきた、勢力図の把握そのものに、これまで以上に、深刻な困難を、抱え続けていた。
軍監は、義元本隊からの、改めての要請を受け、これまでの、拠点の実態を、再調査することとなった。彼は、これまでにない、綿密な調査計画を立て、複数の斥候を、様々な角度から、拠点周辺へと、派遣していった。
数週間後、これらの斥候から、次々と報告が届けられることとなった。しかし、その報告は、いずれも、軍監にとって、これまで以上に、困惑を深めるものであった。
「殿。この村を訪れましたところ、住民の多くが、元々は、伊勢や美濃からの避難民であるとのことにございました」ある斥候が、そう報告した。「彼らは、信照様の御庇護のもと、この地に、新たな生活を築いておるようにございます」
軍監は、その報告に、深いため息をついた。「つまり、この村は、元々の尾張の住民ではなく、他国から流れてきた者たちによって、構成されておるということか」
「左様にございます」
軍監は、地図を睨みながら、さらに深く考え込んだ。「これでは、村の帰属を、出身地によって判断することすら、できぬではないか」
別の斥候からの報告も、同様に、軍監を困惑させるものであった。「殿、この地域では、村人と、通りすがりの商人、そして、信照方の兵とが、まったく見分けがつきませぬ。誰もが、同じ服装で、同じように、日々の生活を営んでおります」
軍監は、深いため息をついた。「敵の兵と、ただの商人、そして、村人が、見分けられぬというのか……。これでは、いかなる作戦も、立てようがないではないか」
この状況は、軍監にとって、これまでの、あらゆる戦の常識を、根本から覆すものであった。従来の戦であれば、敵の兵は、明確な軍装をまとい、明確な指揮系統のもとに、動いているはずであった。しかし、信照方には、そうした、明確な「敵」の姿が、ほとんど存在しないように見受けられたのである。
軍監は、これまでの調査結果を、義元本隊への、改めての報告書として、慎重にまとめることとなった。「織田信照方の勢力圏内、もはや、敵と味方、あるいは、兵と民の区別すら、明確には、つけがたい状況にございます。住民の多くは、自主的に協力する者たちであり、明確な軍事組織としての実体が、極めて希薄にございます。従来の戦術をもって、この勢力を制圧することは、事実上、極めて困難と、推察いたします」
この報告書は、義元本隊において、これまで以上に、深刻な議論を呼び起こすこととなった。ある重臣は、こう漏らしたという。「敵の姿すら見えぬ戦を、いったい、いかにして、我らは、戦えというのだ」
拠点においては、私は、こうした今川方の深刻な困惑など、まったく知らぬまま、日々の平穏な暮らしを、静かに続けていた。ある日、一益が、この今川方の状況についての、詳細な報告を、私にもたらした。
「殿、今川方は、我らの実態を、もはや、まったく把握できずにいるようにございます」
私は、その報告に、少し複雑な笑みを浮かべた。「まあ、そりゃそうだよな。俺たち自身、正直、そんなに厳密に、誰が兵で、誰が民かなんて、区別してないんだから」
(訳:本当に、みんなが、それぞれの立場で、それぞれの形で、この場所を、支えてくれているだけなんだから)
一益は、深く頷いた。「これこそが、我らの、最大の強みにございましょう。明確な敵の姿を持たぬ我らに対して、従来の戦術は、もはや、通用しないのでございます」
私は、その説明に、複雑な思いを抱きながらも、少し安堵した。「そうか……。まあ、俺たちが意図的に、そうしているわけじゃないんだけどな。でも、それが、結果的に、みんなを守ることに繋がっているなら、それでいいのかもしれないな」
その夜、私は寝所で一人、この一連の状況を、改めて考えていた。(俺たちのこの、緩やかで、自然な繋がりが、こんな風に、大きな軍事的な常識を、覆すことになるなんて、正直、まだ、実感が湧かないよ)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。今川方の軍監は、この日以降も、決定的な対策を見出せぬまま、深い苦悩を、抱え続けることとなるのである。
数日後、私は、四天王を集め、この今川方の困惑について、改めて話し合う機会を持った。「みんな、今川方が、俺たちのことを、これほどまでに把握できずにいるって、本当に、これでいいんだろうか」私は、率直な疑問を口にした。
藤吉郎が、丁寧に答えた。「殿。この状況は、我らにとって、決して悪いことではございませぬ。むしろ、明確な標的を持たぬということは、それだけ、我らが、確かな安全を、得ているということでございます」
私は、その説明に、少し安堵しながらも、なおも複雑な思いを抱いていた。「そうだといいんだけどな……。でも、今川方の人たちも、きっと、色々と、大変な思いをしているんだろうな」
一益が、静かに続けた。「殿の、その敵に対してすら向けられる、慈しみの御心――それこそが、殿の、まことの強さにございましょう」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、素直な想いを口にした。「まあ、俺、今川方の人たちのことも、別に、憎んでいるわけじゃないんだ。ただ、みんなが、無用な争いに巻き込まれずに、平和に暮らせるようになればいいって、それだけを願っているだけなんだから」
その夜、私は、改めて、この保護圏という仕組みの、不思議な強さについて、深く考えを巡らせていた。(敵と味方の区別すら、曖昧になっていくこの場所の在り方が、こんなにも、確かな平和を、もたらしてくれているんだな)
その素朴な発見に、私は、静かな充実感を覚えながら、この日も、穏やかな眠りへと、落ちていったのだった。




