第九十話 百策伝説、都へ
第九十話 百策伝説、都へ
「天下の魔王」という評判が、東海全域に浸透し、さらに、南蛮や明国にまで、噂が広がりつつある一方で、京においても、この評判は、これまで以上に、確かな輪郭を持って、語られるようになっていた。
ある日、拠点に、京から下ってきたという、一人の公家の家臣が、丁重な様子で訪れることとなった。
「信照様、初めて、お目にかかります」その家臣は、丁寧な口上を述べた。「それがし、京にて、ある公家に仕える者にございます。主人の命により、信照様の御高名について、直接、詳しく伺いたく、参上いたしました」
私は、その丁重な訪問に、少し緊張しながら応じた。「わざわざ、京から……。どんな話を、聞きたいんだ?」
家臣は、興味深そうに、質問を続けた。「京では、信照様のことを、『百の策を持つ魔王』と、そのように、伝え聞いております。実際のところ、いかなる策を、これまで、用いてこられたのでございましょうか」
私は、その問いに、正直なところ、大いに困惑した。(百の策なんて、そんな大それたもの、俺、全然考えたことがないんだけどな……)
私は、慎重に言葉を選びながら答えた。「正直に言うと、俺、そんなに緻密な策略とか、考えていないんだ。ただ、その時々で、みんなを守りたいって、それだけの気持ちで、動いてきただけなんだよ」
家臣は、その言葉に、少し戸惑った様子を見せた。「まさか……。それほどの、確かな成果を挙げてこられた御方が、緻密な策を、用いておられぬとは……」
私は、続けた。「本当に、単純な理由なんだ。誰かが困っていたら、助けたいと思うし、戦になりそうになったら、できるだけ、犠牲を出したくないって、そう思うだけなんだから」
傍らにいた一益が、静かに補足した。「殿の御言葉、まことにございます。されど、その素朴な御心こそが、いかなる緻密な戦略よりも、確かな強さを、持っておるのでございます」
家臣は、その説明に、深く感じ入った様子であった。「なるほど……。策を用いずして、策を超える――これぞ、まさに、深遠なる理にございますな」
私は、その解釈に、内心で複雑な思いを抱いた。(また、そんな風に、深く解釈されてしまうのか……。本当に、俺、そんな高尚なことを、考えているわけじゃないんだけどな)
この家臣は、その後も、拠点での様々な出来事について、熱心に、聞き取りを続けていった。避難の仕組み、寄進のあり方、旗一本による抑止力――そのすべてに、彼は、深い興味を示していたのである。
数週間後、この家臣が京へと持ち帰った報告は、公家衆の間で、大きな話題を呼ぶこととなった。「東国に、百の策を持つ、不思議な魔王がいる」――そんな噂が、これまで以上に、確かな形で、京の貴族社会に、浸透していったのである。
ある公家は、こう語ったという。「策を用いずして、策を超える――まことに、興味深い話ではないか。この者、あるいは、乱世を、まったく新しい形で、鎮めることのできる、稀有な存在なのやもしれぬ」
拠点においては、私は、こうした京での議論など、まったく知る由もなく、日々の平穏な暮らしを、続けていた。ある日、一益が、この京での噂の広がりについての、詳細な情報を、私にもたらした。
「殿、京の公家衆の間でも、殿の評判が、これまで以上に、確かなものとなっているようにございます」
私は、その報告に、複雑な思いを抱いた。「そうか……。俺、正直、そんな大層な存在として、認識されているのが、まだ、しっくりこないんだよな」
(訳:本当に、単純な気持ちで動いてきただけなのに、こんな風に、大きな評判として、語り継がれていくなんて、想像もしていなかったよ)
一益は、静かに続けた。「殿。この評判の広がりは、決して、悪いことではございませぬ。むしろ、これほど確かな評判が、京にまで届いているということは、いかなる勢力にとっても、殿を、決して侮ることのできない、確かな存在として、認識させる材料となりましょう」
私は、その説明に、深く頷きながらも、なおも複雑な感慨を抱いていた。(俺は、これからも、みんなを守ることだけを、大事にしていきたい。天下がどうとか、そんな大それたことは、正直、まだ、実感が湧かないけど……)
その日の夕刻、私は、拠点の高台に立ち、遠く西の方角――京の方向を、静かに見つめていた。かつて、大学で歴史を学んでいた頃、私は、京という都市を、様々な歴史的な出来事の舞台として、知識の中でのみ、認識していた。それが、今、こうして、自分自身の存在が、その京の貴族社会にまで、確かな影響を及ぼし始めているという事実に、私は、改めて、深い戸惑いを覚えていた。
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を、改めて振り返っていた。桶狭間の敗戦から始まった、絶望的な逃避行。それが、こうして、京の公家衆の間で語られる、確かな評判へと、繋がっていくとは、まさに、想像を超えた展開であった。
(本当に、これから、どうなっていくんだろうな……。でも、俺は、これまでと変わらず、みんなを守ることだけを、大事にしていきたい)
その変わらぬ決意を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。「百策伝説、都へ」――この評判の広がりは、後に、私自身の想像をはるかに超えた、大きな流れの、確かな一部として、その歴史を、刻んでいくこととなるのである。




