第八十七話 家康の焦燥
第八十七話 家康の焦燥
保護圏内の平和な発展が続く一方で、今川方の陣中では、依然として、深刻な内部の葛藤が、静かに続けられていた。松平元康もまた、この長引く膠着状態の中で、これまで以上に、複雑な立場に、置かれ続けていたのである。
元康は、駿府の陣屋で、これまでの尾張情勢の推移を、改めて、詳細に調査し直そうと試みていた。彼の手元には、これまで積み重ねてきた、膨大な報告書の山が、静かに積まれている。
「これほど長い月日が経っても、尾張の情勢に、決定的な変化は見られぬ……」元康は、独り言のように呟いた。
彼が特に注目していたのは、保護圏という仕組みの、確かな安定ぶりであった。かつては、単なる寄せ集めの反乱勢力に過ぎなかったはずのそれが、今や、確かな経済的基盤と、広範な民の支持を得た、独自の統治体制へと、成長を遂げていたのである。
元康は、配下の重臣に、率直な想いを打ち明けた。「わしは、これまで、幾度となく、尾張の情勢を分析して参った。されど、信照方の強さの根源は、いまだに、はっきりとは掴めておらぬ」
重臣は、慎重に答えた。「殿。それがしも、同様の想いにございます。彼らには、明確な統治機構も、体系立った軍制も、存在いたしませぬ。それでいて、あれほどの結束と、拡大を続けている――これは、まことに、不可解な現象にございます」
元康は、深いため息をついた。「されど、一つだけ、確かに、分かっていることがある」
「それは、いかなることでございましょうか」
「信照という者は、恐らく、我らが考えているような、緻密な戦略家では、ないのやもしれぬ」元康は、続けた。「むしろ、あの者の強さは、その素朴さ、そして、決して揺らぐことのない、民を思う心にこそ、あるのではないか」
重臣は、その言葉に、少し驚いた様子であった。「殿は、そのように、お考えでございますか」
元康は、深く頷いた。「わしも、これまでの人質としての日々の中で、多くの、力による支配を、目の当たりにして参った。されど、信照方が築いているのは、力によって奪うのではなく、民の心を、自然と惹きつける、まったく異なる形の統治なのだ」
元康は、その言葉に、密かに、複雑な感情を抱いていた。今川家の人質として、常に、自らの意志を、押し殺し続けてきた彼にとって、信照という存在の、自由で、そして、確かな信頼に基づく統治のあり方は、ある種の、羨望にも似た感情を、抱かせるものであった。
「わしも、いつか、そのような形で、人々を統べることが、できるのだろうか」元康は、独り言のように、そう呟いていたという。
この元康の、密かな内省は、彼の側近たちにも、少しずつ、伝わっていくこととなった。ある側近は、後に、こう振り返っている。「あの頃の殿は、信照公の在り方に、単なる敵対心だけでなく、確かな興味と、そして、密かな憧れをも、抱いておられたように思う」
拠点においては、私は、こうした元康の内心の葛藤など、まったく知る由もなく、日々の平穏な暮らしを、続けていた。ある日、一益が、この元康についての、興味深い情報を、私にもたらした。
「殿、松平元康なる者、これまでの分析を通じて、殿の在り方に、単なる敵対心だけでなく、ある種の興味を、抱き始めているようにございます」
私は、その報告に、少し驚きながら答えた。「え、そうなのか。俺、今川方の人たちとは、ずっと、緊張関係にあるとばかり思っていたよ」
(訳:まさか、向こうの人が、俺たちのことを、そんな風に見ているとは、正直、想像もしていなかったな)
一益は、静かに続けた。「元康殿は、今川家の人質として、これまで、複雑な立場に置かれ続けてきたと聞き及びます。あるいは、殿の御在り方に、御自身の境遇と、重なる何かを、見出しているのやもしれませぬ」
私は、その説明に、深い考えを巡らせた。「そうか……。元康さんも、今川家の中で、自由に動けない、辛い立場にいるんだな」
その夜、私は寝所で一人、この松平元康という人物について、静かに考えていた。(史実では、確か、後に徳川家康として、天下人になるはずの人だ。この世界では、いったい、どんな道を、辿ることになるんだろうな)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。この元康との、いまだ直接の対面を果たしていない、しかし、確かに芽生えつつある、複雑な因縁は、後に、物語の、さらに大きな展開へと、繋がっていくこととなるのである。




