第八十三話 敵が攻めない
第八十三話 敵が攻めない
「天下の魔王」という評判が、東海全域に浸透し、さらに、遠く南蛮や明国にまで、その噂が届き始めるようになった頃、拠点周辺の軍事的な情勢には、これまでとは、明らかに異なる変化が、見られるようになっていた。
義元本隊は、最大規模の掃討戦の失敗以来、これまでのような、積極的な軍事行動を、目に見えて控えるようになっていた。しかし、その執着そのものは、決して、完全に消え去ったわけではなかった。義元本隊は、依然として、次なる侵攻の準備を、慎重に、しかし着実に、進めていたのである。
ある日、一益が、これまでにない緊張感を漂わせながら、拠点に報告に来た。「殿、今川方が、再び、大規模な侵攻の準備を進めているようにございます」
私は、その報せに、思わず身を強張らせた。「また……。今度は、どれくらいの規模なんだ?」
一益は、慎重に答えた。「正確な数は、いまだ、確認できておりませぬ。されど、これまで以上に、周到な準備を進めているようにございます」
私は、その説明に、深い不安を覚えた。(また、大きな戦いになるかもしれないのか……。でも、これまで、なんとか、みんなを守り抜いてこられたんだから、今回も、きっと大丈夫なはずだ)
しかし、拠点周辺の情勢は、この報告とは裏腹に、意外な展開を見せることとなった。今川方は、慎重に準備を進めながらも、実際の侵攻には、なかなか踏み切ろうとしなかったのである。
数週間が経過しても、今川方の大規模な軍勢は、依然として、駿府周辺に留まったままであった。この状況に、拠点の四天王たちも、次第に、疑問を抱くようになっていった。
「なぜ、今川方は、これほどまでに、慎重になっているのだろうか」利家が、率直な疑問を口にした。
一益が、これまでの情報を整理しながら、答えた。「恐らく、殿がこれまで築いてこられた評判の力が、義元様の判断を、慎重にさせているのでございましょう。保護圏各地に集結する援軍の予測不可能な規模、そして、いかなる作戦にも柔軟に対応してきた我らのこれまでの実績――それらすべてが、義元様にとって、無視できない脅威として、映っているのやもしれませぬ」
私は、その説明に、深く頷いた。「そうか……。攻めれば、また、大きな損害を出すことになるかもしれないって、義元さん自身も、分かっているのかもしれないな」
一益は、続けた。「殿。これは、まさに、殿がこれまで積み上げてこられた、確かな成果にございます。もはや、今川方は、我らを、単純な軍事力だけで、討ち果たせる相手とは、考えていないのでございましょう」
私は、その言葉に、少しだけ安堵しながらも、なおも複雑な思いを抱いていた。(本当に、それで、平和が続くなら、それが一番いいんだけどな……)
数か月が経過する中、今川方は、依然として、大規模な軍事行動を、控え続けていた。拠点周辺では、これまで以上に、確かな平穏な日々が、続くこととなった。
ある日、私は、四天王を集め、この状況について、改めて話し合う機会を持った。「みんな、今川方が、こんなに攻めてこなくなったのは、本当に、良かったことだよな」
藤吉郎が、深く頷いた。「はい。加えて、この平穏な期間を活かし、保護圏内の経済や、寺社ネットワークも、さらに、確かな発展を見せております」
小六も、続けた。「川筋や街道の警備も、これまで以上に、余裕を持って行えるようになりました」
私は、その報告に、深い充実感を覚えた。「そうか……。みんなが、それぞれ、この平和な時間を、有効に活かしてくれているんだな」
その日の夕刻、私は、拠点の高台に立ち、遠く駿河の方角を見つめていた。かつては、常に、脅威として存在していたはずのその地から、これまでの、緊迫した気配は、確かに、和らぎつつあるように感じられた。
(義元さんも、俺たちを、簡単には、攻められないって、分かってくれたのかもしれないな。それなら、これから、もっと、平和な時間が、続いてくれたらいいんだけど)
その素朴な願いを胸に、私は、静かに、拠点への帰路を歩んでいったのだった。「敵なき戦」――この、戦わずして敵の攻勢を抑え込むという現象は、後に、保護圏の、確かな安全保障の象徴として、語り継がれていくこととなるのである。
その夜、私は寝所で一人、この平穏な日々の意味を、改めて考えていた。(俺たちの、この静かな強さが、こんな風に、大きな戦を、未然に防いでくれているなら、それは、本当に、素晴らしいことなんだよな)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。しかし、この平穏が、いつまで続くのか――その答えは、まだ、誰にも分からなかったのである。




