第八話 川並衆
第八話 川並衆
拠点の周囲に今川軍の動きが活発化しているという報せが、一益からもたらされた。今川の別動隊が、これまでとは違う進路――拠点の背後にあたる山道を進んでいるという。
「殿、これはまずいかもしれませぬ」一益が珍しく険しい表情で告げた。「この進路の先には、我らの退き口がございませぬ。もし正面と背後、両方から挟まれれば……」
私は思わず青ざめた。(両方から囲まれる? それって、逃げ場がないってことじゃないか!)
これまで拠点が持ちこたえてこられたのは、いざという時にいつでも撤退できるという、私自身の中にある「逃げ道」への強いこだわりがあったからだ。それが断たれるという事実は、私の心に直接的な恐怖として突き刺さった。
夜になっても、私は寝所で一人、地図を睨みながら考え続けていた。拠点の周りに広がる川筋、山道、それらを頭の中で何度もなぞる。(このままじゃ、いざという時に逃げられない。逃げ道さえあれば、最悪の事態は避けられるはずなんだ)
翌朝の軍議で、私はついに、抑えきれなくなった不安をそのまま口にしてしまった。
「……逃げ道を、確保してくれ」
(訳:やばい時にすぐ逃げられるようにしておいてほしい。命だけは、絶対に守りたいんだ)
広間には、しばし沈黙が流れた。利家は怪訝そうな顔をしたが、口を挟むことはしなかった。その言葉を耳にした褐色の肌の荒くれ者が、拠点の片隅から進み出た。それまで拠点の隅で、誰とも交わることなく静かに座っていた男である。
「蜂須賀小六と申す。川並衆を束ねておりまする」
小六の風貌は、これまで拠点に集った浪人たちとは明らかに一線を画していた。日に焼けた肌、荒々しい傷跡の残る腕、そして水夫特有の、どこか野性的な佇まい。かつては野武士として川筋を荒らし回り、「盗賊」と蔑まれ続けてきた過去を持つ男であった。
「殿の御下命、確かに承りました」小六はそう言うと、すぐさま配下の川並衆を率いて拠点周辺の調査に取り掛かった。
小六は一晩のうちに、拠点周辺の川筋に幾つもの船を隠し、いざという時の退路を張り巡らせた。彼が率いる川並衆は、川の流れを知り尽くした者たちであり、その動きは驚くほど迅速かつ正確だった。浅瀬を避け、木々の陰に船を隠し、さらには複数の退路を用意することで、どのような状況にも対応できるようにしたのである。
翌日、小六は誇らしげに報告に来た。「殿、退路の確保、滞りなく終わりましてございます。いざという時は、この川筋を伝って、一昼夜のうちに三里は離れられましょう」
私は心底から安堵した。「本当に助かる……。ありがとう、小六」
(訳:これでいざという時、みんなで逃げられる。命だけは守れる)
しかし、小六が本当に感服していたのは、その用意周到さの意味だった。彼は深く頭を垂れ、震える声で語り始めた。
「殿は、退くことすら戦の内と心得ておられる。勝つことばかりに囚われる者に、真の勝利はない――そう仰せになったも同然にございます」
「え、いや、そこまでは……」
「わしはこれまで、ただの盗賊、野武士上がりと蔑まれ続けてきた身。誰もわしの技を、まっとうな戦働きとして認めてはくれなんだ。しかし殿は、この身の技を、真っ先に頼りとしてくださった」
小六は涙ながらに拳を握った。「この小六、殿の下知とあらば、水の上でも地の底でも、御用立ていたしましょうぞ」
(いや本当にただ逃げ道が欲しかっただけなんだけどな……。そんな深い意味とか、全然考えてなかったんだけど)
利家がその様子を見て、少し複雑な表情を浮かべた。「殿は、退くことを恥とはお考えにならぬのだな。……なるほど、これも一つの武の形か」
一益もまた、深く頷いた。「攻めるための策、守るための策、退くための策――そのすべてを兼ね備えてこそ、真に隙のない用兵と申せましょう。殿は、我らの誰よりも先んじて、その理を悟っておられたのですな」
私はもはや、何も言い返す気力を失っていた。ただ、拠点の周りに退路が確保されたという事実そのものには、心の底から安堵していた。それだけで、今夜からはもう少し、安心して眠れそうな気がしたのである。
その日の夕方、小六は拠点の裏手にある小さな川を眺めながら、独り言のように呟いていた。
「わしのような者を、殿は一言の疑いもなく受け入れてくださった……。これまで生きてきた中で、こんなことは一度もなかった」
彼の脳裏には、かつて川筋の村々で「盗賊」と罵られ、石を投げられた記憶が蘇っていた。生きるために川を渡り、時には荷を奪うこともあった。それがどれほど後ろ暗いことか、小六自身が誰よりも分かっていた。だからこそ、私の何気ない一言――ただ逃げ道が欲しいという、あまりにも情けない本音――が、彼にとっては何よりも重い意味を持って響いたのである。
数日後、拠点には新たに数名の川並衆が加わっていた。小六の噂を聞きつけ、彼を頼って集まってきた者たちだ。彼らもまた、これまで日の当たる場所を歩んだことのない者たちばかりであった。
「殿は、我らのような者にも、居場所を与えてくださる御方だ」小六は仲間たちにそう語っていたという。
私はその話を、後になって利家から伝え聞いた。(俺、そんな大層なこと、何も考えてなかったんだけどな……。ただ、みんなに命を大事にしてほしかっただけなのに)
しかし、私の弱々しい本音は、こうしてまた一つ、確かな形を持った「殿の御恩」として、拠点に集う者たちの中に積み重ねられていった。逃げることしか考えていなかったはずの私が、いつの間にか、居場所を失った者たちの拠り所になりつつあるという事実に、私自身、まだ気づいてすらいなかったのである。




