第七十九話 天下の噂
第七十九話 天下の噂
保護圏が、東海一円に広がり、「百策伝説」が今川方の陣中で語られるようになった頃、この一連の情報は、東海の枠を超え、遠く京へも、その断片が届き始めていた。京は、三好長慶とその後継者たちによって、依然として、確かな安定を保っていたが、地方の動向に、決して無関心ではいられなかった。
ある日、拠点に、京から下ってきたという、一人の商人が訪れた。彼は、様々な珍しい品を扱う、大商人であった。
「信照様、噂には、かねてより伺っておりました」商人は、丁寧な口上を述べた。「この地に、戦を厭いながらも、決して負けぬ、恐るべき御方がおられると」
私は、その言葉に、少し驚きながら答えた。「京にまで、俺の噂が届いているのか……」
(訳:正直、俺、京みたいな遠い場所まで、噂が広まっているとは、想像もしていなかったよ)
商人は、続けた。「はい。京の公家衆や、商人仲間の間でも、『尾張の魔王』という言葉が、しばしば話題になっております。中には、興味半分で、その真偽を確かめようとする者も、少なくございませぬ」
私は、その説明に、複雑な思いを抱いた。「俺、そんな大層な存在じゃないんだけどな……。ただ、みんなを守りたいと思って、その時々で、できることをやってきただけなんだ」
商人は、その言葉に、深く感じ入った様子であった。「信照様は、まことに謙虚な御方にございます。されど、その謙虚さこそが、多くの者たちの心を惹きつける、まことの理由なのでございましょう」
商人が拠点を去った後、私は、この一連の噂の広がりについて、一益に、詳細な確認を求めた。「なあ、一益。俺の噂って、本当に、京まで届いているのか」
一益は、深く頷いた。「はい、殿。これまで、東海一円で語られてきた評判が、商人たちの往来を通じて、京にまで、確かに伝わっているようにございます」
私は、その説明に、深いため息をついた。「そうか……。俺、本当に、想像もしていなかったような、遠くまで、名前が知られるようになってしまったんだな」
一益は、静かに続けた。「殿。この評判の広がりは、決して、悪いことではございませぬ。むしろ、殿の御名が、いかなる勢力にとっても、無用な衝突を避けるべき、確かな存在として、認識されることに繋がりましょう」
私は、その説明に、少し安堵しながらも、なおも深い緊張を抱いていた。「そうだといいんだけどな……。でも、あまり大きな噂になり過ぎると、逆に、余計な注目を集めてしまうんじゃないかって、正直、心配なんだ」
一益は、その懸念に、慎重に答えた。「殿の御懸念、まことにもっともかと存じます。されど、これまでの殿の御方針――力による支配ではなく、慈しみによる庇護――を、貫き続ける限り、いたずらに、殿を敵視する者は、少なくなっていくものと、それがしは、確信しております」
私は、その言葉に、深く頷きながらも、複雑な感慨を抱いていた。(俺は、ただ、みんなを守りたいだけなのに、その素朴な想いが、こんな風に、大きな評判として、遠くまで広まっていくなんて、本当に、まだ、実感が湧かないよ)
数日後、私は、拠点の高台に立ち、遠く西の方角――京の方向を見つめていた。かつて、大学で歴史を学んでいた頃、私は、京という都市を、様々な歴史的な出来事の舞台として、知識の中でのみ、認識していた。それが、今、こうして、自分自身の存在が、その京にまで、確かな影響を及ぼし始めているという事実に、私は、改めて、深い戸惑いを覚えていた。
(俺は、天下とか、そんな大それたことは、望んでいない。でも、俺の噂が、こんなに遠くまで広まっているっていうことは、これから、どんな未来が待っているんだろう)
その素朴な不安を胸に、私は、静かに、拠点への帰路を歩んでいったのだった。「百策伝説、都へ」――この評判の広がりは、後に、私自身の想像をはるかに超えた、大きな流れの、確かな始まりとなっていくのである。この時の私は、まだ、その全貌を、まったく理解していなかった。
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を、改めて振り返っていた。桶狭間の敗戦から始まった、絶望的な逃避行。それが、こうして、遠く京にまで届く評判へと、繋がっていくとは、まさに、想像を超えた展開であった。
(本当に、これから、どうなっていくんだろうな……。でも、俺は、これまでと変わらず、みんなを守ることだけを、大事にしていきたい)
その変わらぬ想いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。
翌日、私は、藤吉郎と共に、京からの商人がもたらした、様々な珍しい品々を、拠点の蔵で確認する機会を得た。遠く西国から運ばれてきたという、鮮やかな染物や、見慣れぬ形をした陶器の数々に、私は、素直な興味を惹かれていた。
「これは、堺の職人が作ったものにございます」藤吉郎が、一つの陶器を手に取りながら、説明した。「京や堺との商いが、これから、さらに活発になっていけば、この地の暮らしも、より豊かになっていくことでございましょう」
私は、その言葉に、深く頷いた。「そうだな。俺の噂が、こんな風に、遠くの土地との、良い繋がりを生むきっかけになるなら、それは、悪いことじゃないのかもしれないな」
藤吉郎は、満足げに微笑んだ。「殿の御高名は、もはや、単なる評判にとどまらず、この地の経済にとっても、確かな資産となりつつございます」
私は、その言葉に、少し誇らしい気持ちを覚えながらも、なおも、素朴な戸惑いを、拭い去ることはできなかった。(俺の名前が、こんな風に、色々な意味を持つようになっていくなんて、本当に、まだ、実感が湧かないよ)
その日の午後、私は、拠点を訪れた別の商人からも、京での噂について、さらに詳しい話を聞くこととなった。「近頃では、公家の方々の間でも、東国の珍しい話として、信照様のことが、しばしば話題になるとのことにございます」商人は、興味深そうに語った。
私は、その話に、複雑な感情を抱きながらも、努めて冷静に応じた。「そうか……。まあ、俺のことが、少しでも、みんなの話題を、明るくしているなら、それでいいのかもしれないな」
その夜、拠点の縁側に座り、私は、遠く西の空を見上げていた。月明かりが、静かに、拠点全体を照らしている。私は、この、確かに広がりつつある評判の重みを、改めて、噛み締めていた。
(俺という一人の人間の、素朴な想いが、こんなにも遠くまで、伝わっていくなんて、本当に、不思議な話だよな。これからも、この想いだけは、絶対に、変わらずにいたい)
その決意を胸に、私は、この夜も、静かに、眠りへと落ちていったのだった。




