第七十八話 百策は尽きない
第七十八話 百策は尽きない
保護圏が、伊勢、美濃、そして、今川方に対立する諸勢力までをも含む、複雑な広がりを見せる中、今川方の軍監は、これまで積み上げてきた分析を、さらに深刻な形で、見直さざるを得ない状況に、追い込まれつつあった。
軍監は、これまでの戦の記録を、改めて整理し直そうと試みていた。しかし、その作業は、これまで以上に、困難を極めることとなった。ある部隊は、避難によって、成果を得られなかった。別の部隊は、旗一本を前に、進軍を断念した。またある部隊は、援軍の予測不可能な集結を目の当たりにし、撤退を余儀なくされた。
「これほど多様な策を、いかにして、一人の若者が、次々と生み出しておるのだ」軍監は、深いため息をつきながら、独り言のように呟いた。
彼は、これまでの数々の失敗を、一つの共通の要因に、結びつけようと試みていた。しかし、その試みは、いずれも、決定的な結論を導くことができなかった。ある時は情報戦、ある時は補給線への攻撃、ある時は民の避難、そしてまた、旗一本による、確かな抑止力――そのすべてが、まったく異なる原理に基づいているように見えたのである。
軍監は、配下の物見たちを、改めて集め、これまでの戦の記録を、一つ一つ、丁寧に検証していった。「これまで、我らが立てた策の、いずれもが、破られておる。だが、それぞれの敗因が、まったく異なる。これは、単純な運の良さでは、説明できぬ現象だ」
物見の一人が、慎重に発言した。「もしや、信照方は、我らが動きを察知する前から、常に、次の一手を、用意しているのではございませぬか」
軍監は、その発言に、深く頷いた。「まことに、その通りかもしれぬ。我らが、いかなる策を講じようとも、信照方は、それを上回る、新たな対応を、常に用意しておる。まるで、無限の策の袖を、持っているかのようだ」
こうして、軍監は、義元本隊への、これまでで最も、深刻な報告書を、まとめることとなった。「織田信照方、これまで、我が方の、いかなる作戦に対しても、一度として、同じ対応を取ったことがございませぬ。それぞれの策は、単純に見えながらも、その裏には、常に、我らの予測を超えた、巧みな工夫が存在しております。この者との戦いにおいて、我が方が、いかなる新たな策を講じようとも、必ずや、それに応じた、新たな対策を、講じてくるものと、推察いたします」
この報告書は、義元本隊の中でも、これまでにない、深刻な議論を呼び起こすこととなった。ある重臣は、こう漏らしたという。「まるで、底なしの沼のようだ。いかに策を投じても、常に、それを上回る何かが、返ってくる」
しかし、実際のところ、この「百策」の実態は、決して、義元本隊が想像するような、緻密な戦略の積み重ねではなかった。それは、私という、一人の臆病な青年の、切実な本音の積み重ねに、他ならなかったのである。避難を促したのは、単純に、誰かに死んでほしくなかったからであり、旗を掲げさせたのは、単純に、誰かを守りたかったからであり、そのすべてが、緻密な計算ではなく、私の、その時々の、素朴な想いから、生まれたものであった。
拠点においては、私は、この今川方の分析など、まったく知る由もなく、日々の平穏な暮らしを、続けていた。ある日、一益が、この今川方の困惑についての、詳細な情報を、私にもたらした。
「殿、今川方の軍監、殿の策の多様さに、まことに困惑しているようにございます。何とも底知れぬ知略の持ち主であると、そう報告しておるようにございます」
私は、その報告に、思わず苦笑した。「え、俺、そんな緻密な策略とか、全然考えてないんだけどな……」
(訳:本当に、単純に、その時々で、みんなを守りたいって、それだけの想いで動いてきただけなんだから)
一益は、深く頷いた。「されど、殿。その素朴な御心こそが、いかなる緻密な戦略よりも、確かな強さを持っておるのでございましょう。策略というものは、いずれ、対策を講じられる可能性がございます。されど、殿の御心のように、真に、他者を思う想いから生まれる行動は、決して、簡単に、対策を講じることができぬのでございます」
私は、その説明に、深く考え込んだ。「そうなんだろうか……。俺、正直、そんな深い意味があるとは、思ってもみなかったよ」
その夜、私は寝所で一人、この日の話を、改めて振り返っていた。(俺の、単純な優しさや、臆病さから生まれた行動が、こんな風に、大きな戦略として、受け止められるなんて、本当に、不思議な話だよな)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。今川方は、この日以降も、決定的な突破口を見出せぬまま、依然として、この、実体を掴めぬ「百策」との、消耗戦を続けていくこととなるのである。「百策伝説」は、こうして、今川方の陣中で、さらに、その神話的な重みを、増していくこととなった。




