第七十五話 西美濃の旗
第七十五話 西美濃の旗
義元本隊の大規模な掃討戦を乗り越えたことで、保護圏の評判は、これまで以上に、確かな広がりを見せるようになっていた。ある日、拠点に、西美濃からの、これまでにない使者が訪れることとなった。
「信照様、我らは、西美濃の国人にございます」使者は、丁寧な口上を述べた。「先の、貴殿の御庇護下にある村々が、あの大軍を退けたという話、まことに、東海一円で語り継がれております」
私は、その話に、少し驚きながら答えた。「あの一件、そこまで話題になっているのか……」
(訳:正直、俺たちは、単純に、みんなの命を守るために、必死に避難させただけなんだけどな)
使者は、続けた。「我らも、これまで、今川方、そして、美濃斎藤家の内紛に、板挟みとなり、苦しんできた身にございます。信照様の御庇護を、頂戴したく、参上いたしました」
私は、その申し出に、これまでの経験を踏まえ、慎重に応じることとした。「あなた方の、これまでの自治は、これからも、変わらず続けてほしい。俺たちは、ただ、外部からの脅威に対して、力を貸すだけだから」
(訳:これまでのやり方が、うまく機能しているんだから、変える必要はないと思う)
使者は、その言葉に、深く感じ入った様子であった。「信照様の御方針、まことに一貫しておられますな。有り難きお言葉にございます」
こうして、西美濃の複数の国人たちも、次々と、保護圏に加わることとなった。しかし、この新たな加入者たちが、実際に、旗を掲げる際には、私は、まったく関与することがなかった。彼らは、自分たちの判断で、自主的に、拠点との連携を、着実に築いていったのである。
数週間後、一益が、興味深い報告を持ってきた。「殿、西美濃の複数の国人が、それぞれ独自に、信照様の旗を掲げ始めております」
私は、その報告に、少し驚きながら答えた。「え、俺、そこまで具体的に、指示を出した覚えはないんだけど……」
一益は、深く頷いた。「はい。殿は、直接、何かを指示されたわけではございません。されど、殿の評判が、これほどまでに広まった今、各地の国人たちは、自主的に、殿の御庇護を求めるようになっているのでございましょう」
私は、その説明に、複雑な思いを抱いた。(俺が、何もしていないのに、どんどん、勢力が広がっていく……。これって、本当に、大丈夫なんだろうか)
私は、藤吉郎に、この状況について、率直な不安を打ち明けた。「なあ、藤吉郎。俺、正直、この広がり方の速さに、まだ、慣れないんだ」
藤吉郎は、静かに答えた。「殿。これは、殿がこれまで、一貫して貫いてこられた方針――力による支配ではなく、慈しみによる庇護――が、確かに、多くの人々の心を、捉えた証にございます」
私は、その説明に、深く頷きながらも、なおも複雑な思いを抱いていた。「そうだといいんだけどな……。でも、これから、もっと広がっていったら、俺たちの手が、回らなくなるんじゃないかって、正直、心配なんだ」
藤吉郎は、その懸念に、丁寧に答えた。「殿。これまでも、そうであったように、各地の村や豪族が、それぞれ自立し、互いに助け合う仕組みが、着実に育まれております。殿御自身が、すべてを管理する必要はございませぬ」
私は、その言葉に、少し安堵した。「そうか……。みんなが、それぞれの力で、支え合ってくれているなら、それでいいのかもしれないな」
その日の夕刻、私は、拠点の高台に立ち、遠く西美濃の方角を見つめていた。かつては、まったく無縁であったはずのその地が、今や、確かに、この保護圏の一部として、その連携を築きつつある。私は、その事実に、改めて、深い感慨を覚えていた。
(俺は、ただ、みんなを守りたいと思っていただけなのに、それが、こんなに遠くの地まで、繋がっていくなんて……。本当に、まだ、実感が湧かないよ)
その夜、私は寝所で一人、この日の出来事を、静かに振り返っていた。私の与り知らぬところで、また、新たな勢力が、この保護圏の一部として、確かに加わりつつある。その事実は、私にとって、喜びと、そして拭いきれない不安が、複雑に入り混じった、揺れる感情を、もたらすものであった。
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。西美濃の旗は、こうして、保護圏の、さらなる確かな拡大の、新たな一章を、静かに刻んでいくこととなるのである。




