第七十三話 お市の願い
第七十三話 お市の願い
義元本隊の最大規模の掃討戦を乗り越え、拠点には、これまでにない、確かな平穏な日々が戻りつつあった。お市もまた、齢十五を迎え、これまで以上に、拠点での活動に、積極的に取り組むようになっていた。
ある日、私は、久しぶりに、拠点の炊き出しの現場を訪れることとなった。今川方の襲撃から帰還したばかりの村人たちの中には、まだ、生活の立て直しに苦労している者も多く、拠点では、彼らのための、支援の炊き出しが、続けられていたのである。
その現場に、お市の姿があった。彼女は、これまで以上に、落ち着いた所作で、多くの人々の世話を、丁寧に行っていた。
「お市」私は、声をかけながら、彼女の傍らに歩み寄った。
お市は、私の姿に気づくと、優しく微笑んだ。「兄上。此度も、こうして、皆様のお役に立てることを、嬉しく思っております」
私は、その言葉に、深い感慨を覚えた。(あの、まだあどけなさの残っていたお市が、今では、こんなに立派に、みんなを支えてくれているんだな)
私は、その日、久しぶりに、お市と共に、炊き出しの手伝いをすることにした。粥の入った器を、並んだ人々に配っていく。子供たちは、嬉しそうに器を受け取り、大人たちは、深々と頭を下げながら、感謝の言葉を口にした。
作業の合間、お市は、私に、静かに語りかけた。「兄上。此度の戦、まことに大変な試練にございましたね」
私は、深く頷いた。「本当に、そうだったな。でも、誰も傷つかずに済んで、本当に良かったと思ってる」
お市は、その言葉に、優しく微笑んだ。「兄上の御心が、多くの人々を、確かにお守りになったのでございます」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、素直に答えた。「俺一人の力じゃないよ。みんなが、それぞれ頑張ってくれたからこそなんだ」
(訳:お市にそう言ってもらえるのは、正直、すごく嬉しいけど、本当に、俺だけの力じゃないんだから)
その日の炊き出しが終わった後、私とお市は、二人で、夕暮れの空を眺めながら、しばらくの間、他愛のない会話を交わしていた。
「兄上」お市が、ふと、真剣な表情を浮かべて、切り出した。「わたくしも、いつか、兄上のお力になれるよう、もっと、多くのことを学びたいと思っております」
私は、その言葉に、少し驚きながら答えた。「え、学びたいって、どんなことを?」
お市は、慎重に続けた。「保護圏の運営、村々との連携、そして、寺社との関わり――兄上や、四天王の皆様が、どのように、この場所を支えておられるのか、わたくしも、もっと、深く理解したいのです」
私は、その真剣な想いに、深い感動を覚えた。「お市が、そんな風に考えてくれているなんて、正直、嬉しいよ」
(訳:お市が、こんな風に、成長してくれているのを見るのは、本当に、誇らしいことだよな)
私は、続けた。「藤吉郎や一益に、色々と教えてもらえるように、俺からも、頼んでみるよ」
お市は、その言葉に、嬉しそうな表情を浮かべた。「有り難うございます、兄上。わたくしも、この保護圏という場所を、これからも、共に支えていきたいと、心から願っております」
私は、その言葉に、深い喜びを感じながら答えた。「うん、これからも、一緒に、頑張っていこうな」
その様子を、拠点の少し離れた場所から、静かに見守っていた民の一人が、感慨深げに呟いた。「信照様とお市様、まことに、素晴らしい兄妹であられる」
その言葉は、周囲の人々の間でも、静かに、確かな共感を呼んでいった。誰もが、この兄妹の絆を、拠点の、確かな象徴として、心に刻んでいたのである。
その夜、私は寝所で一人、お市との会話を、静かに振り返っていた。(お市が、こんな風に、この場所のために、もっと学びたいって言ってくれるなんて、本当に、嬉しいことだよな。これからも、お市と一緒に、この場所を、大切にしていきたい)
その素朴な想いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。しかし、この兄妹の、確かに深まりゆく絆の中に、周囲の人々が読み取っている「深読み」の意味に、私は、まだ、まったく気づいていなかったのである。




