第六十九話 空の勝利
第六十九話 空の勝利
避難が着々と進む中、今川方の主力軍は、ついに、尾張への進軍を本格化させた。数万の兵が織りなす、これまでにない規模の軍勢は、地響きを立てながら、着実に、拠点周辺へと迫りつつあった。
拠点においては、私は、これまでにない緊張感の中、四天王からの報告を、逐一、受け取っていた。「殿、今川方の主力軍、いよいよ、先鋒が、最初の村へと到達したようにございます」一益が、緊迫した声で報告した。
私は、その報せに、思わず息を呑んだ。「その村は、無事に避難できているのか」
「はい。すでに、住民は、すべて安全な場所へと移動を終えております」
私は、その報告に、深い安堵を覚えながらも、なおも緊張を解くことはできなかった。(村人たちは無事だけど、これから、実際に、今川方が、その村を占領しようとするはずだ。その時、何が起きるんだろう)
数日後、その村を占領した今川方の部隊からの報告が、義元本隊へと届けられることとなった。ある部隊長が、当惑した様子で、上官に報告した。
「村を制圧いたしましたが……誰もおりませぬ」
「誰も、いない、とは、どういうことだ」上官が、苛立たしげに問うた。
「文字通りにございます。家々には、生活の痕跡こそ残っておりますが、住民の姿は、まったく見当たりませぬ。まるで、我らが来ることを、事前に察知していたかのように」
上官は、深いため息をついた。これは、今川方にとって、決して初めての経験ではなかった。しかし、これほどの大軍を送り込んでもなお、同様の事態が続くという事実は、彼らの士気に、確かな影を落とすこととなった。
進軍は、その後も、続けられていった。しかし、その先々で、今川方の兵たちが目にしたのは、いずれも、住民のいない、無人の村々であった。家々は静まり返り、田畑には、収穫を待つばかりの作物が、そのまま残されている。しかし、そこに、人の気配は、まったく感じられなかったのである。
「これは、いったい、どういうことなのだ」義元本隊の軍監は、次々と届けられる報告を前に、深い困惑を覚えていた。「これほどの大軍を送り込んでいるというのに、我らが得ているのは、ただ、無人の村々を占領しているという事実だけではないか」
軍監は、この状況を、義元への報告書に、慎重にまとめた。「進軍先の村々、いずれも、事前に住民が避難しており、我が方は、実質的な戦果を得られておりませぬ。それどころか、占領した村には、物資の備蓄もほとんどなく、逆に、我が方の兵站を、圧迫する結果となっております」
この報告は、義元本隊にとって、これまでにない深刻な問題を突きつけることとなった。数万の兵を動員したにもかかわらず、実質的な戦果は、ほとんど得られていない。それどころか、無人の村々を占領し続けることで、逆に、今川方自身の補給が、じわじわと圧迫されていくという、皮肉な状況が生まれていたのである。
拠点においては、私は、この一連の報告を、一益から受け取りながら、複雑な思いを抱いていた。「殿、進軍経路上の村々、すべて、無事に避難を終えております」一益が、そう報告した。
私は、その報告に、心底から安堵しながらも、なおも深い緊張を保っていた。「よかった……。でも、これから、どうなるんだろう」
(訳:村人たちは無事だけど、今川方の大軍が、そのまま尾張に居座り続けたら、この先、いったい、どうなってしまうんだろう)
一益は、静かに答えた。「殿。今川方は、無人の村々を占領し続けることで、確実に、兵站の負担を増していくことになりましょう。これは、我らにとって、決して不利な状況ではございませぬ」
私は、その説明に、少しだけ安堵しながらも、なおも複雑な思いを抱いていた。「そうだといいんだけどな……。でも、田畑や家々が、荒らされてしまうのは、やっぱり辛いよな」
その夜、私は寝所で一人、この日の状況を、静かに振り返っていた。(誰も傷つかなかったのは、本当に良かった。でも、これから、この戦いが、どんな結末を迎えるのか、正直、まだ、まったく予測がつかないよ)
その素朴な不安を胸に、私は、静かに眠りについたのだった。この「空の勝利」――誰もいない村々を占領し続けるという、皮肉な戦果は、以後、今川方の大軍にとって、確かな消耗の始まりとなっていくのである。




