第六十八話 逃げろ
第六十八話 逃げろ
義元本隊による、最大規模の掃討戦の準備が、確実に進んでいるという情報は、拠点に、これまでにない緊張感をもたらしていた。一益の情報網は、連日、今川方の大軍の動きを、詳細に伝え続けていた。
「殿、今川方の主力軍、すでに動き始めております」一益が、緊迫した声で報告した。「その規模は、これまでとは、比較にならないほどのものにございます。数万の兵が、尾張へ向けて、進軍を開始しております」
私は、その報せに、これまでにない、深い恐怖を覚えた。(数万の兵……。これまでの小競り合いとは、全然違う。もし、正面からぶつかったら、絶対に、勝てない)
四天王を前に、私は、必死に頭を働かせながら、告げた。「みんな、これまでの村を守る仕組みは、しっかり機能しているか」
一益が、答えた。「はい。今川方の進軍経路上にある村々には、これまでの経験を踏まえ、迅速な避難体制が、すでに整えられております」
私は、その説明に、少しだけ安堵しながらも、なおも深い不安を抱えていた。(それでも、これほどの規模の軍勢が来るとなると、これまでのやり方だけで、本当に、大丈夫なんだろうか)
私は、これまで以上に、強い決意を込めて告げた。「危ない、逃げろ」
(訳:とにかく、みんなの命だけは、絶対に守りたい。今回だけは、これまで以上に、慎重に、迅速に、避難を進めなきゃいけない)
四天王たちは、私のその切実な言葉を受け、直ちに、これまでにない規模の避難計画を、実行に移していった。一益が、進軍経路上のすべての村に、緊急の伝令を送り、藤吉郎が、避難に必要な物資と、受け入れ先の確保を、迅速に整えていく。
避難の指示を受けた村々では、これまでの経験の蓄積もあり、住民たちは、驚くほど迅速に、行動を開始した。貴重品や食糧を持ち、家財道具の一部を運び出し、あらかじめ定められた避難経路を通じて、安全な場所へと移動していく。
「これまで、何度も、こうした避難を経験してきたからこそ、今回も、迷うことなく動けます」ある村の名主が、そう語った。「信照様の御庇護のもと、我らは、命を守る術を、確かに学んで参りました」
数日をかけて、進軍経路上の村々からの避難は、驚くほど順調に進められていった。私は、拠点で、その状況を、逐一、報告として受け取りながら、深い緊張と共に、事態の推移を見守っていた。
「殿、避難、順調に進んでおります」藤吉郎が、報告に来た。「これまでのところ、犠牲者は、一人も出ておりませぬ」
私は、その報告に、心底から安堵した。「よかった……。本当に、よかった」
(訳:これまでの経験の積み重ねが、こんな風に、みんなの命を守ることに、確かに繋がっているんだな)
しかし、私の不安は、決して完全には拭い去られていなかった。今川方の主力軍が、実際に、この地に到達すれば、避難できなかった財産や、村そのものが、どのような被害を受けるか、まったく予測がつかなかったからである。
私は、四天王に、率直な不安を打ち明けた。「みんなが無事なのは、本当に良かった。でも、村や田畑が、荒らされてしまったら……」
一益が、静かに答えた。「殿。それは、確かに、避けられぬ被害となりましょう。されど、命さえあれば、田畑は、また、いつか、取り戻すことができます」
私は、その言葉に、深く頷いた。「そうだよな……。何よりも、命が、一番大事なんだから」
その夜、私は寝所で一人、これから起こるであろう、最大規模の戦いに向けて、深い緊張と共に、考えを巡らせていた。(今回だけは、これまでのように、うまく切り抜けられるかどうか、正直、まったく自信がない。でも、少なくとも、みんなの命だけは、絶対に守り抜きたい)
その切実な想いを胸に、私は、なかなか寝付けぬまま、夜を過ごすこととなった。窓の外では、遠く、今川方の大軍が、着実に、尾張へと近づきつつある、その気配が、確かに感じられるようであった。この、これまでにない規模の脅威に、拠点が、そして私自身が、いかにして立ち向かうことになるのか――その答えは、まだ、誰にも分からなかったのである。




