第六十話 東海の魔王
第六十話 東海の魔王
義元本隊が、さらなる大規模な兵の派遣を計画しているという情報が、拠点にもたらされて以来、拠点全体に、これまでにない緊張感が漂っていた。しかし、その一方で、これまで積み上げてきた保護圏の評判は、もはや、東海一円、そして遠く離れた諸国にまで、確かな存在感をもって広まりつつあったのである。
ある日、拠点に、遠く伊勢の商人が、興味深い話を持ってやってきた。
「信照様、実は、伊勢の北畠様、そして、近江の六角様の間でも、信照様の御高名が、大変な話題となっておるようにございます」商人は、丁寧な口調で語った。
私は、その話に、驚きを隠せなかった。「北畠様や六角様まで……。俺、そんな遠くの人たちにまで、知られているとは、正直、思ってもみなかったよ」
商人は、続けた。「今川の大軍を相手に、一度も正面から戦うことなく、着実に力を蓄えてこられた――そのお話は、もはや、東海一円で、知らぬ者がないほどにございます」
私は、その言葉に、複雑な思いを抱いた。(俺、そんな大それたことをしたつもりはないんだけどな……。でも、こんなに広く噂されるようになるなんて)
その夜、私は一益に、この話について、改めて確認を求めた。「なあ、一益。北畠様や六角様のところにも、俺たちの噂が届いているって、本当なのか?」
一益は、深く頷いた。「はい、殿。それだけではございませぬ。武田、上杉といった、遠く離れた大国からも、殿の動向を、注意深く探る動きが、確認されております」
私は、その説明に、深いため息をついた。「なんか、俺、本当に、想像もしていなかったような、大きな存在になってしまったんだな……」
一益は、静かに続けた。「殿。これは、決して悪いことではございませぬ。奪わず、支配せず、それでいて、確実に力を蓄えていく――その評判が、諸国に広まれば広まるほど、いたずらに、殿に敵対しようとする者は、少なくなっていくものにございます」
私は、その説明に、少しだけ安堵しながらも、なおも複雑な思いを抱いていた。「そうだといいんだけどな……。でも、義元だけは、なんで、そんなに執着し続けるんだろう」
一益は、しばし考え込んだ後、答えた。「義元様にとって、尾張は、単なる一つの領国ではなく、東海全体を一つの国家としてまとめ上げるという、御自身の壮大な構想の、最後の要石にございます。それゆえに、いかなる困難にも、決して諦めようとはなさらないのでございましょう」
私は、その説明に、深く頷いた。「そうか……。それぞれの人に、それぞれの、譲れない理由があるんだな」
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を、改めて振り返っていた。桶狭間の敗戦から始まった、絶望的な逃避行。前田利家との、運命的な出会い。木下藤吉郎、滝川一益、蜂須賀小六――かけがえのない仲間たちとの、深い絆。お市との、心温まる兄妹の時間。そして、尾張全土、美濃、伊勢へと広がりつつある、この保護圏という、前例のない仕組み。
(本当に、遠くまで来たもんだよな……。俺は、ただ、逃げたかっただけなのに)
私は、その事実に、改めて、深い感慨を抱いていた。「東海の魔王」――誰かが、そう呼び始めたこの評判は、もはや、単なる一地方の噂話ではなく、東海地方全体の勢力図を左右する、確かな存在感として、着実にその重みを増しつつあった。
(奪わぬのに従う者が増える男――そんな評判が、こんなに広がっているなんて、正直、まだ、実感が湧かないよ)
しかし、その素朴な戸惑いとは裏腹に、私自身の存在は、もはや、東海の各地の勢力にとって、無視できない、確かな要素となりつつあった。この評判の広がりが、これから先、私自身と、拠点全体に、どのような未来をもたらすことになるのか――この時の私は、まだ、その全貌を、正確に理解できてはいなかった。
窓の外に広がる、夜の静けさを見つめながら、私は、ただ、これまで積み上げてきた、確かな絆と平和を、これからも、大切に守り続けていきたいという、変わらぬ想いを、改めて胸に刻んでいたのだった。




