第五十九話 尾張を諦めぬ義元
第五十九話 尾張を諦めぬ義元
各地の代官たちが、統治の困難さに直面し、自ら任地を去っていくという事態が相次ぐ中、駿府の義元本隊には、これまでにない深刻な議論が交わされていた。ある重臣は、これまでの状況を踏まえ、思い切った提案を、義元に対して行った。
「義元様。尾張への執着を、いったん、緩められてはいかがでしょうか。この地への投資は、もはや、割に合わぬものになりつつございます」
義元は、その進言に、しばし深い沈黙を保っていた。彼の脳裏には、これまで積み上げてきた、東海一帯の巨大国家という、壮大な構想が、繰り返し去来していた。
「撤退……か」義元は、ようやく、重い口を開いた。「されど、それは、我が構想そのものを、根本から諦めることに等しい」
重臣は、慎重に続けた。「されど、いくら兵を送っても、統治が進まぬ以上、これ以上、この地に固執することは、他の地域の統治にも、支障を来しかねませぬ」
義元は、その言葉に、深いため息をついた。「駿河、遠江、三河は、すでに、確かな統治の基盤を築いておる。されど、尾張だけが、いつまでも、我が手をすり抜けていく……。この一国を諦めては、東海全体を統一するという、我が理想が、完全な形を成すことは、決してあるまい」
義元にとって、尾張という地は、単なる一つの領国以上の、深い象徴的な意味を持っていた。それは、彼が思い描く、経済的にも軍事的にも最強の東海国家を完成させるための、最後の重要なピースだったのである。
「まだ、諦めるわけには参らぬ」義元は、ついに、そう結論を下した。「新たな兵を、さらに送ろう。今度こそ、この尾張を、完全に我が手に収めるのだ」
重臣は、その決断に、深く頭を下げた。「承知いたしました。されど、義元様。この兵の派遣、いかなる形で行うべきか、慎重に検討する必要がございましょう」
義元は、深く頷いた。「そうだな……。これまでの、小規模な討伐の繰り返しでは、意味がない。今度は、より大規模かつ、周到な準備をもって、この地に臨まねばならぬ」
こうして、義元は、これまで以上に大規模な、そして、より綿密に計画された、尾張への攻略作戦を、本格的に準備し始めることとなった。この決断は、拠点にとって、これまでにない、大きな試練の予兆となるものであった。
一方、拠点においては、私は、こうした義元本隊の深刻な議論など、まったく知らぬまま、日々の平穏な暮らしを、静かに続けていた。ある日、一益が、この義元の決断についての情報を、私にもたらした。
「殿、義元様は、依然として、尾張への執着を、捨てておられぬようにございます。今度は、これまで以上に、大規模な兵の派遣を、計画しているとの由」
私は、その報せに、思わず息を呑んだ。「まだ、来るのか……。もう、これで、何度目だろう」
(訳:これまで、なんとか、大きな戦にならずに済んできたけど、義元本人がここまで執着しているとなると、いつかは、正面から向き合わなきゃいけない時が、来るのかもしれない)
一益は、静かに続けた。「義元様は、東海全体を、一つの巨大な国家としてまとめ上げるという、壮大な構想をお持ちにございます。尾張は、その構想における、最後の要石。義元様が、これを容易に諦められることは、恐らくございますまい」
私は、その説明に、深い不安を覚えた。「そうか……。それって、俺たちが、これからも、ずっと、こういう脅威と向き合い続けなきゃいけないってことなのか」
一益は、深く頷いた。「されど、殿。これまで、我らは、常に、犠牲を最小限に抑えながら、確実に、義元様の攻勢を退けて参りました。今後も、この方針を貫く限り、我らが、決定的な危機に陥ることは、まずございますまい」
私は、その言葉に、少しだけ安堵しながらも、なおも深い緊張を感じていた。「そうだといいんだけどな……」
その夜、私は寝所で一人、これからの日々に思いを馳せていた。(義元は、まだ、尾張を諦めていない。これから、もっと大きな戦いが、待っているのかもしれない)
窓の外に広がる、夜の静けさを見つめながら、私は、これまで積み上げてきた保護圏という仕組みが、来るべき試練に対して、本当に十分な強さを持っているのかどうか、改めて、深く考えを巡らせていた。私にとって、その不安は、決して杞憂ではなく、確かな現実として、少しずつ、その輪郭を、はっきりとさせつつあったのである。




