第五十八話 血なき勝利
第五十八話 血なき勝利
義元本隊による大規模な兵の派遣が現実味を帯びる中、今川方の各地の代官たちの間では、次第に、統治そのものへの意欲が、失われつつあった。ある村を任されていた代官もまた、そうした状況に、深く苦しんでいる一人であった。
その代官は、これまで数か月にわたり、村人たちの協力を得られないまま、形だけの統治を続けてきていた。年貢は集まらず、命令は届かず、周囲からは、常に、冷ややかな視線を向けられ続けてきたのである。
ある夜、その代官は、ついに、自らの陣屋で、密かに決断を下した。「もはや、この地に留まることに、何の意味もない……」
彼は、翌朝、わずかな供の者たちだけを連れ、静かに、村を後にすることとなった。誰にも見送られることのない、ひっそりとした撤退であった。
村人たちは、朝になって、代官が姿を消していることに気づいた。「代官殿が、いなくなっている……」村の若者が、驚いた様子で、周囲に伝えた。
村の名主は、しばし考え込んだ後、静かに告げた。「ならば、我らは、これより、信照様の旗を、掲げようではないか」
村人たちは、その言葉に、次第に頷き始めた。誰かが、拠点に、この一件を知らせに向かうこととなった。数日後、拠点には、この村からの報せが届けられた。
「今川方の代官が、自ら去っていったとのことにございます」一益が、その報告を、私に伝えた。
私は、その報せに、少し驚きながらも、深い安堵を覚えた。「そうか……。誰も、傷つかなかったんだな」
(訳:戦うことなく、こんな風に、平和に決着がつくのが、俺にとっては、何よりの喜びなんだ)
一益は、深く頷いた。「まさに、血なき勝利にございます。殿がこれまで築いてこられた評判の力が、いかなる武力よりも、確かな効果を発揮しております」
私は、その言葉に、複雑な思いを抱きながらも、素直な喜びを感じていた。(俺、そんな戦略的な意図で動いているわけじゃないんだけどな。でも、誰も血を流さずに、こんな結果になるなら、それは、本当に、いいことだと思うんだ)
この村での一件は、決して孤立した出来事ではなかった。同様の事例は、その後も、尾張各地で、次々と報告されるようになっていった。今川方の代官たちは、統治の困難さに直面し、次々と、自らの意志で、任地を離れていったのである。
ある日、私は、この村を、実際に訪れる機会を得た。村の入り口には、すでに、信照の旗が、誇らしげに掲げられていた。村人たちは、私の来訪を、心から喜んで迎えてくれた。
「信照様、まことにお世話になっております」村の名主が、深々と頭を下げた。「代官殿が去った後、我らは、正直、これからどうなるのかと、不安に感じておりました。されど、こうして、信照様の御庇護のもと、平穏に暮らせるようになり、心から安堵しております」
私は、その言葉に、素直な喜びを感じながら答えた。「みんなが無事で、本当に良かった。これからも、みんなが、安心して暮らせるように、俺にできることを、していきたいと思っています」
(訳:本当に、単純な想いなんだけど、こうやって、誰も傷つかずに、平穏な日々が続いているのが、俺にとって、一番の喜びなんだ)
村を後にする際、私は、田畑で働く村人たちの、穏やかな姿を、改めて目にした。彼らの表情には、これまでの不安の色は、もはや、まったく感じられなかった。ただ、確かな安心と、平穏な日常の中での、素朴な喜びが、そこにはあった。
帰路、私は、傍らを歩く一益に、率直な想いを語った。「なあ、一益。こんな風に、誰も傷つかずに、少しずつ、平和が広がっていくのが、俺にとっては、本当に、何よりも嬉しいことなんだ」
一益は、静かに頷いた。「殿の御心が、まさに、この平和の礎となっておるのでございます」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、深い充実感を抱いていた。(俺は、天下とか、そんな大それたものは、望んでいない。でも、こうやって、少しずつでも、確かな平和が広がっていくなら、それは、決して悪いことじゃないんだ)
その素朴な想いを胸に、私は、夕暮れに染まる道を、拠点へと向かって、ゆっくりと歩んでいったのだった。血なき勝利という、この静かな成果は、こうして、保護圏の、さらなる確かな拡大へと、繋がっていくこととなるのである。




