第五十七話 幻影の兵数
第五十七話 幻影の兵数
義元本隊による、さらなる兵の派遣が現実味を帯びる中、今川方は、これまでにない徹底した情報収集を試みていた。その一環として、義元は、直属の兵数調査団を、尾張各地へと派遣することを決定した。
この調査団は、これまでの物見や間者とは異なり、より組織的、かつ徹底した手法で、拠点の実態把握を試みていた。彼らは、複数の地点に分かれて配置され、それぞれの地点から確認できる、拠点に集う兵の数を、慎重に記録していったのである。
しかし、この調査は、開始早々から、大きな困難に直面することとなった。ある地点の報告によれば、拠点に集う兵の数は、二千ほどであった。しかし、翌日、別の地点からの報告では、その数は、六千を超えるものとされていたのである。
「これは、いったい、どういうことだ」調査団を率いる隊長は、その矛盾した報告に、深い困惑を覚えた。「同じ拠点を観察しているはずなのに、なぜ、これほどまでに、数字が違うのだ」
隊長は、改めて、両方の調査地点に、詳細な確認を命じた。しかし、返ってきた答えは、いずれも、明確な誤りを示すものではなかった。実際に、それぞれの地点から観察できる兵の数は、その日の状況によって、大きく変動していたのである。
これは、実際のところ、拠点に集う援軍が、常に流動的であったことに起因していた。ある日は、近隣の村々からの援軍が多く集まり、また別の日は、それぞれの村の農作業や生活の都合により、援軍の数が、大きく減少することもあった。誰かが、意図的に兵数を偽っていたわけではなく、ただ、保護圏という仕組みそのものが、常備軍とは根本的に異なる性質を持っていたに過ぎなかったのである。
しかし、今川方の調査団にとって、この現象は、まったく理解の及ばないものであった。「二千から六千まで、兵数がこれほど変動するとは、まるで、幻の軍勢を相手にしているかのようだ」
軍監は、この報告を受け、しばし考え込んだ後、これまでにない、深刻な結論に至った。「これは、単なる誤差ではあるまい。何らかの意図的な欺瞞、あるいは、我らの理解を超えた、まったく新しい軍事の形なのやもしれぬ」
この報告は、義元本隊にも、大きな動揺をもたらすこととなった。ある重臣は、こう漏らしたという。「実体の掴めぬ敵ほど、恐ろしいものはない。二千とも六千とも知れぬ軍勢を相手にしては、いかなる兵力を送るべきか、判断すら難しくなる」
拠点においては、私は、こうした今川方の混乱など、まったく知らぬまま、日々の平穏な時間を過ごしていた。ある日、一益が、この今川方の調査についての情報を、私にもたらした。
「殿、今川方は、我らの兵数を、正確に把握しようと試みているようにございますが、うまくいっていない様子にございます」
私は、その報告に、思わず苦笑した。「そりゃそうだよな。俺たち自身、正確な兵数なんて、把握できてないんだから」
(訳:援軍の数は、本当に、その時々でバラバラだからな。俺にも、正直、正確な数は分からないよ)
一益は、深く頷いた。「これこそが、我らの、思わぬ強みとなっておるようにございます。敵が、我らの実態を把握できぬ限り、いかなる作戦を立てようとも、その効果は、限定的なものとなりましょう」
私は、その説明に、複雑な思いを抱きながらも、少し安堵した。「そうか……。まあ、俺たちが意図的に、そうしているわけじゃないんだけどな」
その夜、私は寝所で一人、この一連の状況を、改めて考えていた。(俺たちの拠点って、本当に、不思議な形をしているよな……。誰かが命令して、常に決まった数の兵を揃えているわけじゃなくて、その時々で、必要な人が、必要な分だけ、自然と集まってくる)
その素朴な発見に、私は、ある種の感慨を覚えていた。(これって、俺が意図して作った仕組みじゃない。でも、結果的に、こういう形が、俺たちにとって、一番自然で、一番強いのかもしれないな)
その夜、拠点の外れでは、翌日の農作業のために、集まっていた援軍の何割かが、それぞれの村へと帰っていく様子が見られた。そして、また、翌日には、別の理由で、新たな援軍が、拠点に集まってくることとなる。この、絶えず変化し続ける兵力の流動性こそが、今川方にとって、最も対処しにくい、「幻影の織田軍」という伝説を、さらに確かなものへと変えていったのである。




