第六話 忍びの答え
第六話 忍びの答え
今川軍の動きが読めず、拠点には常に緊張が漂っていた。物資は満ち、人数も増えたものの、それが逆に不安を煽ることもある。多くの人間を守らねばならないという重圧が、私の胃をじわじわと締め付けていた。
(今川軍が今どこにいるのか、どれくらいの規模なのか、何も分からない。このままだと、いつ奇襲を受けるか分かったものじゃない……)
私は毎晩、寝床の中でそんな不安を抱えながら過ごしていた。表向きは平静を装っていたが、内心では常に最悪の事態を想定し、震えていたのである。
そんなある夜、拠点の警備が緩んだ隙をついたかのように、音もなく一人の男が現れた。夜が明けきらぬ、まだ薄暗い刻限のことである。気配を全く感じさせず、まるで影がそのまま人の形を取ったかのような佇まいだった。
「滝川一益と申す者。渡り忍びにございます。殿の御用に立ちたく、参上いたしました」
素性の知れぬ男に、利家は即座に槍を構えた。「何者だ! どこから入り込んだ!」
一益は表情を変えることなく、静かにその場に片膝をついた。「拠点の警備の隙を突いてお目にかかっただけのこと。害意はございませぬ」
利家はなおも警戒を解かなかったが、私はその男の目を見て、なぜか不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、藁にもすがりたい気持ちの方が強かった。
私は疲れた声で言った。「今川軍がどう動くか、調べてきてくれるか」
(訳:情報がないと不安すぎる、誰か調べて。頼むから安心させてくれ)
一益は静かに頷いた。「委細承知」
その一言だけを残し、一益はまた音もなく姿を消した。まるで最初から存在していなかったかのように。利家は狐につままれたような顔で、私に尋ねた。
「殿、あの者を信じてよろしいのですか。素性も知れぬというのに」
「うーん、まあ、信じるしかないんじゃないか。他に手立てもないし」
(訳:正直、信じていいのか俺にも分からない。でも、藁にもすがりたいくらい情報が欲しいんだ)
三日後、一益は今川軍の詳細な布陣図を持ち帰ってきた。その正確さに、利家たちは息を呑んだ。布陣の配置だけでなく、各部隊の指揮官の名、兵糧の残量、さらには夜間の警備の緩む時間帯まで、事細かに記されていた。
「これほどの情報を、たった三日で……」利家は震える声で呟いた。
一益は私の前で深々と頭を下げた。「殿が『調べてこい』と一言仰せになっただけで、これほどの情報を掴めましたのは、殿の御言葉に込められた、真に必要な情報を見極める確かな眼力あってのこと」
(いや、ただ「調べて」って言っただけなんだけど……。俺、そんな眼力なんて持ち合わせてないよ)
「素性も知れぬこの身に、全権をお預けくださるとは。この一益、生涯、殿に忠義を尽くしまする」
一益の声には、これまで感じたことのない切実な響きがあった。彼はこれまで、渡り忍びという素性ゆえに、どこへ行っても疑いの目でしか見られたことがなかったのだという。私の何気ない一言が、彼にとっては初めて受けた「無条件の信頼」だったのである。
その夜、一益は拠点の見張り台に一人立ち、夜空を見上げながら静かに呟いていた。
「これまで、誰も我が身を信じてはくれなんだ。だが殿は、たった一言で、この身のすべてを預けてくださった……。この恩、必ずや返さねばならぬ」
私はそんな一益の心情など知る由もなく、布陣図を眺めながら、ただただ安堵していた。(これで、少しは今川軍の動きが読めるようになる。ありがたい……)
こうしてまた一人、私の適当な言葉が、忠臣の心を焼くことになった。素性の知れぬ渡り忍びは、この日を境に、拠点にとって欠かせない情報網の要となっていくのである。
翌朝、私は改めて一益に礼を言おうと思い立ち、彼の姿を探した。しかし一益は、まるで最初からそこにいなかったかのように、拠点のどこにも姿を見せなかった。
「一益なら、また情報収集に出かけましたぞ」利家がそう教えてくれた。「殿への忠義を示すべく、寝る間も惜しんで働いておられるようで」
(そんなに無理しなくていいのに……。俺は別に、そこまで求めていないんだけどな)
私はそう思いながらも、拠点にもたらされる情報の質が日増しに高まっていくことに、確かな安堵を覚えていた。少なくとも、今川軍がいつ奇襲を仕掛けてくるか分からないという恐怖からは、少しずつ解放されつつあったのだから。




