第五十二話 魔王の旗一本
第五十二話 魔王の旗一本
境目の村における一件は、拠点内外に、これまでにない、静かな衝撃を与えていた。旗一本の存在が、いずれの陣営にとっても、無用な衝突を避けるべき境界として機能する――この現象は、以後、保護圏の各地において、より広く応用されていくこととなった。
ある日、私は、藤吉郎から、興味深い報告を受けた。「殿、美濃と尾張の境に、小さな砦がございます。これまで、いずれの勢力からも、その帰属が定まらず、荒廃したまま放置されておりました」
私は、その説明に、少し興味を惹かれた。「その砦、どうなっているんだ?」
「実は、その砦を守る、わずかな数の兵たちが、独自に、殿の旗印を掲げることを、決意したのでございます」
私は、その話に、驚きを覚えた。「え、俺たちが何かしたわけじゃなくて、勝手に旗を掲げたのか?」
藤吉郎は、深く頷いた。「はい。彼らは、これまで、いずれの勢力からも見捨てられ、孤立無援の状態にございました。しかし、境目の村の一件を耳にし、殿の旗印さえあれば、この砦を守り抜けるのではないかと、そう考えたのでございましょう」
私は、その決断に、複雑な思いを抱いた。(俺、そんな砦のことなんて、全然知らなかったのに……。それでも、俺の旗を頼りにしてくれるなんて)
数日後、この砦を、実際に今川方の一部隊が、包囲しようとする動きがあった。しかし、その部隊は、砦に掲げられた信照の旗を目にした瞬間、進軍を止め、しばし遠巻きに様子を窺うのみとなった。
「あの旗は、織田信照方の証だ」その部隊の指揮官は、部下にそう告げたという。「うかつに攻め込めば、いかなる報復を招くか、分からぬ」
結局、その部隊は、砦への攻撃を断念し、静かに撤退していった。この一件は、砦を守る兵たちにとって、まさに、想像を超える結果であった。彼らは、拠点に、心からの感謝を伝える使者を送ってきた。
「信照様の御旗のおかげで、我らは、一戦を交えることなく、この砦を守り抜くことができました」使者は、深く頭を下げながら、そう報告した。
私は、その報告を聞き、素直な感慨を覚えた。「そうか……。俺が、何か直接的な力を貸したわけじゃなくても、旗があるだけで、こんな結果になるなんて」
一益が、その場で、静かに解説した。「殿。これこそが、殿がこれまで築いてこられた評判の、確かな重みにございます。もはや、殿の旗印は、単なる目印ではなく、それ自体が、確かな『力』として、機能し始めているのでございましょう」
私は、その説明に、深く考え込んだ。(俺は、正直、そんな大それた力を持っているとは、思っていないんだけどな……。でも、みんなが、そう受け止めてくれるなら、それでいいのかもしれない)
この一件を境に、保護圏内の様々な場所で、同様の現象が、次々と報告されるようになっていった。小さな砦、孤立した村、あるいは、街道の要所――そうした場所に、信照の旗が掲げられるだけで、今川方をはじめとする周辺勢力が、無用な衝突を避けるようになっていったのである。
ある日、私は、四天王を集め、この現象について、改めて話し合う機会を持った。
「みんな、この旗一本の力、正直、俺には、まだ実感が湧かないんだ」私は、率直な想いを口にした。「俺自身は、何も変わっていないのに、旗一本で、これほどの結果が生まれるなんて」
利家が、力強く答えた。「殿。それは、殿御自身の存在そのものが、確かな信頼と、揺るがぬ評判に支えられている証にございます」
一益も、続けた。「奪わず、支配せず、それでいて、確実に守り抜く――殿がこれまで貫いてこられた御方針が、この旗一本に、確かに凝縮されておるのでございましょう」
私は、その言葉に、少し複雑な思いを抱きながらも、素直に頷いた。「そうか……。俺一人の力じゃなくて、みんなが、これまで積み上げてきたものが、この旗に、詰まっているってことなんだな」
その夜、私は寝所で一人、この日の話し合いを振り返っていた。窓の外に広がる、夜の静けさを見つめながら、私は、改めて、自分を取り巻く状況の大きさを、実感し始めていた。
(俺は、天下とか、そんな大それたことは、望んでいない。でも、この旗が、少しでも多くの人たちの平和を守るなら、それは、決して悪いことじゃないのかもしれないな)
その素朴な想いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。「魔王旗一本だけで、城が守られる」――この不可思議な伝説は、こうして、保護圏全体に、さらなる確かな重みを持って、広まっていくこととなるのである。




