第四十九話 間者の報告
第四十九話 間者の報告
尾張の魔王という評判が、遠く甲斐の武田家にまで届いていたことは、これまでにも触れてきた通りである。その武田家では、この得体の知れぬ存在の実態を、より正確に把握するべく、密かに間者を派遣することが決定されていた。
派遣された間者は、行商人に扮し、慎重に尾張への潜入を試みた。彼は、まず、保護圏周辺の村々を巡り、信照という人物についての、様々な噂を、丁寧に聞き集めていった。
「信照様は、まことに恐るべき御方だ」ある村人は、そう語った。「今川の大軍を相手に、一度も正面から戦うことなく、これほどまでの力を蓄えられたのだから」
「あの御方は、常に、深い策略を巡らせておられる。表向きは、ただの若者に見えても、その内には、計り知れぬ智謀が秘められているのだ」別の村人も、そう語った。
間者は、これらの証言を、丁寧に書き記していった。しかし、彼が本当に知りたかったのは、その「魔王」の、実際の姿であった。彼は、慎重に機会をうかがい、拠点の様子を、遠くから観察する機会を得た。
その日、間者は、拠点の外れの畑の傍らに身を潜め、拠点の様子を窺っていた。彼の目に入ったのは、意外な光景であった。
拠点の縁側で、一人の青年が、のんびりと横になり、居眠りをしている姿であった。その青年こそが、まさに「魔王」と呼ばれる、信照本人であった。
間者は、その光景に、しばし言葉を失った。(あれが、あの恐るべき魔王だというのか……。まるで、ただの、暇を持て余した若者ではないか)
彼は、しばらくその場に留まり、様子を観察し続けた。すると、拠点の内部から、四天王の一人と思しき人物が、その青年に近づき、何かを報告しているのが見えた。青年は、寝ぼけた様子で、何やら短い言葉を返すと、また、そのまま眠りに落ちていったようであった。
間者は、その様子を、注意深く記録した。(あの若者は、ほとんど動くことなく、ただ、居眠りをしているだけのように見える。しかし、その周りの者たちは、明らかに、深い敬意を持って接している)
彼は、この観察結果を、報告書にまとめる際、大いに迷った。素直に「ただ居眠りをしているだけであった」と報告すれば、それは、これまで武田家に伝わっていた「恐るべき魔王」の評判とは、まったく矛盾するものとなる。
間者は、しばし考え込んだ末に、次のような報告書を、まとめることにした。
「信照なる者、表向きは、無為に時を過ごし、居眠りをするだけの、平凡な若者のように見受けられます。されど、これは、恐らく、その本性を隠すための、巧みな偽装であるものと推察いたします」
この報告書は、武田家の重臣たちの間で、大きな議論を呼ぶこととなった。ある重臣は、興味深そうに、その報告を吟味した。
「なるほど……。本性を隠すための偽装、か。これは、まさに、老獪な策略家の証よな」
別の重臣も、深く頷いた。「あからさまに力を誇示する者よりも、むしろ、その真意を、決して外に見せぬ者の方が、より危険であるとも言える」
こうして、間者のもたらした観察結果は、武田家において、「本性を隠している」という、まったく異なる文脈で、解釈されていくこととなった。実際には、私は、単純に、精神的な疲労から逃げるように、居眠りをしていただけであったのだが、その事実が、正しく伝わることは、決してなかったのである。
拠点においては、この日、私は、いつものように、拠点の縁側で、心地よい昼寝を楽しんでいた。四天王たちが、それぞれの持ち場で、忙しく動き回っていることを、私自身、ぼんやりとしか把握していなかった。
その夜、私は、利家から、こんな報告を受けた。「殿、本日、何者かが、拠点周辺を、密かに探っていた様子にございます」
私は、少し驚きながら答えた。「え、間者が来てたのか。何か、盗まれたりしていないか?」
(訳:正直、間者とか、そんな大それたものを警戒しなきゃいけないほどの人物になってるとは、まだ実感が湧かないんだけどな)
利家は、深く頷いた。「殿の御威光が、遠く甲斐にまで及んでいることの証にございましょう。武田の間者すらも、殿の真意を見極めんと、この地へ足を運んだのでございます」
私は、その言葉に、複雑な思いを抱いた。「そうか……。俺の真意なんて、正直、単純明快なものなんだけどな」
その夜、私は寝所で一人、この日の出来事を振り返っていた。遠く離れた国からも、自分の存在が注目されていることを、改めて実感しながら、私は、ある種の畏怖と、そして拭いきれない不安を抱いていたのである。しかし、その不安すら、翌朝には、家臣たちによって、「深謀遠慮の証」として、また異なる形で解釈されていくことになるのだった。




