第四十八話 家康の悪夢
第四十八話 家康の悪夢
「戦が来なくなりました」という農夫の言葉が、拠点の内外で語り継がれる一方で、その言葉は、今川方の陣営にとって、まさに苦々しい現実を突きつけるものであった。松平元康は、この一連の報告を受け、深い焦燥感を募らせていた。
元康は、改めて、討伐計画を立て直そうと試みていた。彼の陣屋には、これまでの戦況を記した数多の書類が、山のように積まれている。
「これまでの失策を、繰り返してはならぬ」元康は、そう自らに言い聞かせながら、地図を睨み続けていた。
しかし、その計画は、開始早々から、大きな障壁に突き当たっていた。元康が、密かに集めさせた情報を通じて分かったのは、保護圏内の村々が、いかなる状況においても、決して情報を漏らさないという、確かな現実であった。
「殿、村人たちは、我らの問いかけに、決して口を開きませぬ」ある斥候が、困惑した様子で報告した。「金銭を提示しても、脅しをかけても、まったく揺らがぬのでございます」
元康は、その報告に、深いため息をついた。「これまで、金子や脅しに屈しない民など、見たことがない。信照とやらは、いったい、いかなる手段で、これほどの忠誠を、民から得ておるのだ」
元康自身、その答えを、うすうす感じ取っていた。それは、単純な支配や強制ではなく、何らかの、より根本的な信頼関係に基づくものであることを。しかし、その具体的な仕組みを、正確に把握することは、依然として、困難を極めていた。
ある日、元康は、これまでとは異なる作戦を試みた。今川方の兵を、あえて商人に扮装させ、村に潜入させるという、危険な策であった。しかし、この作戦も、思わぬ形で失敗に終わることとなった。
潜入した兵の一人が、村人たちの様子を観察するうち、思いがけぬ光景を目にした。それは、村人たちが、まったく偽りのない、自然な様子で、信照への感謝を語り合っている姿であった。
「これは、演技ではない……」その兵は、後に元康への報告で、そう述べたという。「村人たちは、本当に、心から、信照様への忠誠を抱いておるようにございます」
元康は、この報告に、さらなる困惑を深めた。「演技ではなく、まことの忠誠だと申すのか……。それでは、我らが、いかに手を尽くしても、この者たちを、動かすことはできぬということになろう」
この状況は、元康にとって、まさに戦えない敵との対峙であった。武力で制圧しようとすれば、村人たちの結束を、逆に強めるだけであり、経済的な圧力をかけようとすれば、保護圏内の豊かな経済活動が、それを容易に吸収してしまう。
元康は、ある夜、陣屋で一人、深い葛藤を抱えていた。「わしは、いったい、何と戦っておるのだ。敵の兵を打ち破ることは、これまでも、幾度となく成し遂げてきた。されど、この、心そのものを結束させる力には、わしには、いかなる対抗策も見出せぬ」
その夜、元康は、これまでにない悪夢を見たという。夢の中で、彼は、無数の村々に囲まれ、いずれの村も、彼に対して、決して敵意を示すことなく、しかし、決して従うこともなく、ただ、静かに、彼の存在そのものを、拒み続けているのであった。
「これは、戦えない敵だ……」元康は、夢の中で、そう呟いていたという。目覚めた後、彼は、その夢の意味を、改めて考えざるを得なかった。
翌朝、元康は、改めて、義元本隊への報告書をしたためた。「織田信照方の勢力圏、いかなる軍事的、経済的圧力をもってしても、切り崩すことが、極めて困難でございます。この者たちの結束は、単なる利害関係ではなく、より深い、信頼に基づくものと推察されます。従来の戦の常識をもって、これに対処しようとすれば、無用な消耗を、さらに重ねる結果となりましょう」
この報告書は、義元本隊においても、深刻な議論を呼ぶこととなった。しかし、義元自身は、いまだ、この状況に対する、明確な対応策を、見出せずにいたのである。
拠点においては、私は、こうした今川方の苦悩など、まったく知る由もなく、ただ、日々の平穏な暮らしを、静かに享受していた。ある夜、私は、寝所で一人、この頃の生活を、しみじみと振り返っていた。
(本当に、平和な日々が、続いているな……。このまま、みんなが、穏やかに暮らせる時間が、できるだけ長く続いてほしい)
その素朴な願いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。私の与り知らぬところで、敵陣営に、確かな悪夢として刻み込まれていく私の存在――それは、単なる軍事的な強さではなく、多くの人々の、心からの信頼という、目に見えない、しかし確かな力によって、築き上げられていたのである。




