第四十七話 百姓の本音
第四十七話 百姓の本音
保護圏の広がりとともに、拠点には、これまで以上に多くの民が、日々の暮らしぶりを語りに訪れるようになっていた。ある日、私は、拠点の外れの畑で、農作業に励む老いた農夫の姿を目にした。彼は、私の姿を認めると、鍬を置いて、深々と頭を下げた。
「信照様、いつもお世話になっております」
私は、その農夫に、親しみを込めて話しかけた。「精が出るね。畑の様子は、どうだい」
農夫は、少し驚いた様子であったが、すぐに、嬉しそうな表情に変わった。「おかげさまで、今年は、実に穏やかな一年でございました」
私は、その言葉に、興味を惹かれ、農夫の傍らに座り込んだ。「穏やかな一年だったって、どういうことだい」
農夫は、しみじみとした様子で語り始めた。「これまで、幾年も、戦の度に、田畑を焼かれ、若い者たちが徴発され、まことに苦しい暮らしを続けて参りました。されど、信照様が、この地を守ってくださるようになってから、戦が来なくなりました」
私は、その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。「それは、良かった……」
(訳:本当に、そう感じてくれているなら、俺がやってきたことも、無駄じゃなかったのかもしれないな)
農夫は、続けた。「もはや、我らは、戦の恐怖に、怯えることなく、こうして、日々の畑仕事に、専念できるようになりました。孫たちも、無事に育っております」
私は、その言葉に、静かに頷きながら答えた。「それなら、それで良かった」
(訳:単純な言葉だけど、俺にとっては、これ以上嬉しい言葉はないかもしれない)
その言葉を、そのまま、率直な感謝として受け止めていた私であったが、周囲の者たちには、その素朴な会話が、また異なる意味を持って響いていた。この会話を、偶然、離れた場所から見聞きしていた、一人の旧臣がいたのである。
その旧臣は、後に、他の家臣たちに、この一件を語って聞かせた。「信照様は、あの老いた農夫の、たった一言――『戦が来なくなりました』という言葉を、まさに、ご自身の治世の、最も大切な成果として、深く受け止められたのだ」
この話は、瞬く間に、拠点の内外へと広まっていった。「殿は、民の、ささやかな幸せを、何よりも大切にお考えになる」――そんな評判が、さらに、確かなものとして、定着していくこととなったのである。
数日後、私は、四天王を伴って、別の村を視察する機会を得た。そこでも、村人たちは、口々に、似たような感謝の言葉を、私に伝えてきた。
「信照様のおかげで、我らは、安心して暮らせるようになりました」
「戦がないというだけで、これほど、暮らしが豊かに感じられるとは、思ってもみませんでした」
私は、その言葉の一つ一つに、深く耳を傾けながら、素朴な喜びを感じていた。(俺は、天下とか、大それたものは、望んでいない。でも、こうやって、みんなが、少しでも穏やかに暮らせるようになっているなら、それが、俺にとって、一番の喜びなんだ)
視察の帰り道、私は、一益に、率直な想いを語った。「なあ、一益。俺、こういう、みんなの、何気ない感謝の言葉を聞くのが、本当に嬉しいんだ」
一益は、静かに頷いた。「殿。それこそが、まことの名君の資質にございましょう。大きな野心や、輝かしい戦功を求めるのではなく、ただ、民の、ささやかな幸せを、何よりも大切にする――これは、決して、誰にでもできることではございませぬ」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、正直な想いを口にした。「まあ、俺は、単純に、みんなが苦しんでいるのを見るのが、辛いだけなんだけどな。それが、少しでも減ってくれるなら、それが、俺にとって、何よりの報酬なんだ」
一益は、深く頷いた。「その素朴な御心が、この保護圏という仕組みの、まことの根幹にございます」
拠点への帰路、夕暮れに染まる田畑の風景を眺めながら、私は、静かな充実感に包まれていた。かつて、桶狭間の敗戦から始まった、絶望的な逃避行の日々。それが、こうして、多くの人々の、穏やかな暮らしへと繋がっていることに、私は、改めて、深い感慨を覚えていたのである。
(この平穏が、これからも、できるだけ長く続いてほしい。それが、俺の、唯一の願いなんだ)
その素朴な願いを胸に、私は、拠点への道を、ゆっくりと歩んでいったのだった。この、農夫の何気ない一言――「戦が来なくなりました」――という言葉は、後に、拠点の人々の間で、「名君伝説」の、一つの重要な礎として、語り継がれていくことになるのである。




