第四十四話 敵の地図
第四十四話 敵の地図
保護圏がさらに拡大し、援軍という仕組みが確固たるものとなっていく中、今川方の軍監は、これまで以上に深刻な困難に直面していた。彼は、義元本隊からの指示を受け、尾張及び周辺地域の、詳細な勢力図の作成を命じられていたのである。
軍監は、自らの陣屋で、大きな地図を広げ、これまで得られた情報を、一つ一つ書き込んでいこうとしていた。しかし、その作業は、開始早々から、行き詰まりを見せていた。
「この村は、先月までは、我らに従っておったはず……」軍監は、地図上のある地点を指しながら、独り言のように呟いた。「されど、今では、織田方に忠誠を誓っておるという。いつ、この変化が起きたのか、正確な時期すら、掴めぬ」
配下の物見が、恐る恐る報告した。「軍監様。実は、この一月だけでも、七つの村が、新たに信照方に与しております」
「七つ……」軍監は、深いため息をついた。「これでは、いくら地図を作ろうとしても、追いつかぬではないか」
軍監は、これまでの戦の常識に従い、明確な境界線を地図上に引こうと試みた。しかし、その試みは、根本的な部分で、うまくいかなかった。ある村は、表向きは今川方への忠誠を示しながら、裏では、織田方への協力を惜しまない。またある村は、公然と信照の旗を掲げながらも、今川方との直接的な対立は、慎重に避けている。
「これは……もはや、単純な敵味方の区分けでは、捉えきれぬ」軍監は、そう結論せざるを得なかった。
彼は、この困難な状況を、義元本隊への報告書に、正直に記すことにした。
「尾張及び周辺地域の勢力図、正確な作成は、極めて困難にございます。村々の忠誠は、日々変化し、加えて、その忠誠のあり方も、単純な服従ではなく、微妙な陰影を帯びております。織田信照なる者の影響力は、もはや、地図上に明確な線として描くことのできぬ、広範かつ流動的なものと化しております」
この報告書は、義元本隊に、さらなる困惑をもたらすこととなった。義元付きの重臣の一人は、この報告に対し、苛立ちを隠せなかった。
「線が引けぬだと? そのような曖昧な報告で、いかにして、我らが対策を講じられるというのか」
しかし、実際に現地で情報収集にあたる軍監たちにとって、この困難は、決して誇張されたものではなかった。ある部隊が、ある村を「今川方の領地」と見なして通過しようとした際、その村の住民から、強い抵抗を受けるという事態も発生していた。
「この村は、すでに、信照様の御庇護下にございます」村人は、そう主張したという。「今川方の通行を、認めるわけには参りませぬ」
しかし、その同じ村が、別の日には、今川方の代官からの要求に、表面上は従う姿勢を見せることもあった。こうした一貫性のない対応は、今川方にとって、まさに理解不能な現象として映っていたのである。
「織田領は、地図に描けぬ」――軍監が、そう結論づけた言葉は、やがて、今川方の陣中で、確かな共通認識として、語り継がれるようになっていった。
一方、拠点においては、この状況について、四天王たちの間で、興味深い議論が交わされていた。ある日の軍議で、一益が、静かに切り出した。
「殿。今川方は、我らの勢力範囲を、正確に把握できずにいるようにございます」
私は、その報告に、少し驚きながら答えた。「え、そうなのか。俺たち自身も、正直、どこまでが保護圏なのか、はっきりとは分かっていないくらいなのに」
(訳:俺、本当に、そこまで意図的に曖昧にしているわけじゃないんだけどな……)
藤吉郎が、その言葉に、興味深そうに頷いた。「それこそが、我らの強みなのやもしれませぬ。明確な境界がないということは、敵にとっては、いかなる対策も講じにくいということにございます」
私は、その説明に、複雑な思いを抱いた。(強みって言われても、俺、そんな戦略的な意図で動いてるわけじゃないんだけどな……。ただ、みんなが、それぞれの判断で、自分たちの村を守っているだけなんだから)
その夜、私は寝所で一人、この一連の出来事について考えていた。(俺たちの保護圏は、地図には描けない。でも、それは、決して弱さじゃなくて、むしろ、確かな強さなのかもしれないな)
窓の外に広がる、夜の静けさを見つめながら、私は、この不思議な仕組みが、これから先、どこまで広がっていくのか、改めて考えを巡らせていた。今川方の困惑は、拠点にとって、確かな安全保障として機能していたが、同時に、その存在自体が、より大きな脅威として、今川方の警戒心を、さらに強めていくことにもなっていくのだった。




