第四十話 境界なき勢力
第四十話 境界なき勢力
尾張の魔王としての評判が、東海の各地へと広まりつつあった頃、拠点には、これまでとは異なる種類の使者が、次々と訪れるようになっていた。それは、尾張の外――美濃や伊勢といった、隣国の国人たちからの相談であった。
ある日、美濃国境に近い村から、一人の国人が、密かに拠点を訪れた。彼の表情には、深い苦悩の色が刻まれていた。
「信照様、御相談いたしたきことがございます」国人は、慎重に切り出した。「それがし、美濃斎藤家に仕える身にございますが、当家は現在、家中の争いにより、深く揺らいでおります」
私は、その話に、興味深く耳を傾けた。(美濃……確か、この時代、斎藤道三の死後、家中が混乱していたはずだ)
国人は、続けた。「加えて、今川方からの圧力も、日増しに強まっております。我らは、いずれの勢力にも与することなく、ただ、この地を守り抜きたいと願っております。されど、それは、あまりにも困難な道にございます」
私は、その苦悩に、深く同情した。「それは、辛いことだな……」
国人は、意を決したように、続けた。「そこで、恐れながら、信照様に、御相談申し上げたく存じます。我らも、信照様の御庇護を頂戴することは、叶いましょうか」
私は、その申し出に、少し戸惑いを覚えた。(美濃の国人まで……。俺、そこまでの力、本当にあるんだろうか)
私は、正直な想いを口にした。「いや、自分たちで……」
(訳:俺には、美濃のことまで、責任を持って守れる自信は、正直、ないんだ。あなた方は、あなた方自身で、決めるべきことなんじゃないだろうか)
国人は、その言葉に、少し困惑した様子であった。私は、慌てて、言葉を続けようとした。しかし、その隣に控えていた一益が、静かに口を挟んだ。
「殿は、皆様の自主性を、何よりも大切にお考えなのです」一益は、丁寧に説明した。「されど、今川方の脅威から、皆様をお守りすることに関しては、殿は、決して手を惜しまれませぬ」
私は、その一益の説明に、内心で複雑な思いを抱いた。(そういう意味で言ったわけじゃなかったんだけど……。まあ、それならそれで、いいのかもしれない)
国人は、その説明に、深く感じ入った様子であった。「なるほど……。信照様は、我らを支配するのではなく、あくまで、我らの自主性を重んじながら、お守りくださるのですな。これほど、有り難いお申し出はございませぬ」
私は、もはや、訂正する気力もなく、ただ曖昧に頷くしかなかった。(まあ、結果的に、それでみんなが安心できるなら、それでいいのかもしれないな)
四天王は、この申し出を「保護圏拡大開始」の号令として受け取ったようであった。軍議の場で、藤吉郎が、興奮した様子で語った。
「殿、これは、まことに大きな一歩にございます。尾張のみならず、美濃、そして、いずれは伊勢へも、殿の御威光が及ぶことになりましょう」
私は、その言葉に、驚きを隠せなかった。「え、伊勢まで……? いや、俺、そこまで大きな話は、全然想定していなかったんだけど」
一益が、静かに続けた。「殿。境目というものは、地図の上に、明確な線を引けるものではございませぬ。人々の心が、殿を頼りとする限り、その範囲は、自然と広がって参るものにございましょう」
私は、その言葉に、深い感慨を覚えた。(俺が意図したわけじゃないのに、どんどん広がっていく……。これって、本当に、大丈夫なんだろうか)
不安は尽きなかった。しかし、同時に、私の中には、確かな覚悟のようなものも、少しずつ芽生え始めていた。
(俺が、境界を決めるわけじゃない。ただ、頼ってきた人たちを、できる限り、放っておかない――それだけは、絶対に、続けていきたいんだ)
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を振り返っていた。桶狭間の敗戦から始まった、絶望的な逃避行。前田利家との出会いを皮切りに、木下藤吉郎、滝川一益、蜂須賀小六――かけがえのない仲間たちとの絆。お市との、心温まる兄妹の時間。そして、尾張全土、さらには美濃へと広がりつつある、保護圏という前例のない仕組み。
(本当に、あっという間だったな……。俺は、ただ、逃げたかっただけなのに、いつの間にか、こんな大きな流れの中心にいる)
私は、その事実に、改めて、複雑な感慨を抱いていた。しかし、その複雑な感情の奥底には、確かな喜びと、そして、これからも守り続けたいという、揺るぎない決意もまた、確かに存在していたのである。
窓の外には、穏やかな夜の静けさが広がっていた。私は、その静寂の中で、ゆっくりと目を閉じた。第2部「保護圏の拡大」は、こうして、新たな地平へと、確かな一歩を踏み出しながら、幕を閉じようとしていたのである。次なる展開が、私自身の想像をはるかに超えたものになろうとは、この時の私は、まだ、何一つ知る由もなかった。




