第三十八話 尾張全土
第三十八話 尾張全土
寺社ネットワークが加わり、保護圏の範囲は、さらにその厚みを増していった。今川方の代官たちにとって、この状況は、日を追うごとに、より深刻なものへと変わりつつあった。
ある日、今川方の一人の代官が、任地であった村を、ひっそりと去っていくという出来事が起きた。その代官は、これまで、尾張南部の一角を、辛うじて統治し続けていた人物であったが、もはや、その統治すら、事実上、機能しなくなっていたのである。
「もはや、この地に留まることに、何の意味があろうか」代官は、去り際に、そう漏らしたという。「村人たちは、我らの命に従うふりをするだけで、その実、すべての情報を、信照方に流しておる。年貢すら、まともに集まらぬ」
この代官の撤退は、決して孤立した出来事ではなかった。同様の事例が、尾張各地で、次々と報告されるようになっていたのである。今川方の陣中では、こうした撤退の報告が相次ぐたびに、深い動揺が広がっていった。
一益は、こうした状況を、逐一、詳細に拠点へと報告していた。「殿、この一月だけでも、五名の代官が、それぞれの任地を放棄しております」
私は、その報告を聞きながら、複雑な思いを抱いた。(俺、そんな代官たちを、直接追い払ったわけじゃないんだけどな……。みんな、勝手に逃げていってしまうんだ)
「これは、いったい、どういうことなんだろう」私は、率直な疑問を口にした。
一益は、静かに説明した。「代官たちは、統治のための力を、すでに失っております。村人たちが協力を拒み、豪族たちが忠誠を示さず、寺社までもが、我らを頼りとする――そうした状況の中で、代官たちは、もはや、有効な支配を、継続できなくなっているのでございましょう」
私は、その説明に、深く頷いた。「つまり、俺たちが、何か直接的に攻撃したわけじゃなくても、みんなが、それぞれの場所で、自分たちの意志で今川に協力しなくなったから、代官たちが、いられなくなったってことか」
「まさに、その通りにございます」一益は、そう答えた。
この状況は、拠点にとって、これまでにない大きな変化をもたらすこととなった。かつては、拠点周辺の限られた地域にのみ及んでいた「保護圏」という概念が、いつしか、尾張全域を覆うほどの、広範な影響力へと成長していたのである。
私は、ある日、拠点の高台に立ち、周囲を見渡した。かつては、桶狭間の敗戦により、絶望と混乱に沈んでいたはずのこの地が、今や、確かな秩序と、穏やかな日常を取り戻しつつある。田畑には、農民たちが忙しく働く姿があり、街道には、商人たちの活発な往来がある。
(すごいことになったな……。俺、こんな大きなことを、自分がやったなんて、正直、まだ実感が湧かないよ)
その傍らに、一益が静かに歩み寄ってきた。「殿。この光景こそが、殿がこれまで積み重ねてこられたものの、確かな証にございます」
私は、その言葉に、少し戸惑いながらも答えた。「俺一人の力じゃ、絶対にここまでできなかったよ。みんなが、それぞれの場所で、頑張ってくれたからこそだ」
一益は、深く頷いた。「殿の御謙遜、まことに美徳にございます。されど、この場所を守り、拡げてきた、その根底にあるのは、常に、殿の御意思にございました」
私は、その言葉に、複雑な思いを抱きながらも、素直に頷いた。(俺の意思っていうより、俺の弱さと臆病さが、こんな結果に繋がったんだけどな……。まあ、それでも、みんなが幸せに暮らせているなら、それでいいのかもしれない)
その日の夕刻、私は四天王を呼び集め、改めて、この現状について話し合うことにした。
「みんな、これまで、本当にありがとう」私は、素直な感謝の言葉を口にした。「俺一人じゃ、絶対にここまでできなかった。みんなのおかげで、こんなに多くの人が、平和に暮らせるようになったんだと思う」
利家が、感激した様子で答えた。「殿のお言葉、まことに身に余る光栄にございます。我らこそ、殿の御意思あってこそ、ここまで歩んでこられたのでございます」
藤吉郎、一益、小六も、それぞれ深く頷いた。私は、その四人の顔を、一人一人見つめながら、改めて、この拠点が、確かな絆によって支えられていることを、実感していた。
「これからも、みんなで、この場所を守っていこう」私は、そう告げた。
(訳:天下とか、そんな大それたことは分からないけど、少なくとも、この場所にいる人たちだけは、絶対に守り抜きたいんだ)
四天王は、その言葉に、それぞれの決意を新たにするように、深く頭を垂れた。こうして、尾張全域が、実質的に、拠点の保護圏として、確かな一体感を持つようになっていったのである。私の与り知らぬところで、この一体感は、やがて、さらに大きな流れへと発展していくことになるのだった。




