第三十三話 忍びの価値
第三十三話 忍びの価値
一益がもたらす情報は、拠点の運営において、もはや欠かせないものとなっていた。その正確さと迅速さは、拠点の意思決定を支える、確かな基盤であった。しかし、一益自身は、依然として、拠点の外を飛び回り、静かに、しかし確実に、情報収集を続けていたのである。
ある日、一益は、これまでにない緊張感を漂わせながら、拠点に戻ってきた。彼の手には、一枚の書状が握られていた。
「殿、火急の報にございます」一益は、私の前に膝をつき、その書状を差し出した。「今川方の命令書を、奪い取って参りました」
私は、その書状を受け取りながら、驚きの声を上げた。「命令書……? どうやって手に入れたんだ」
一益は、淡々と答えた。「今川方の伝令が、この付近の陣屋へ向かう途中、その隙を突いて、書状を奪い取りました」
私は、書状の中身に目を通した。そこには、義元本隊から、周辺の部隊に向けた、次の作戦方針が記されていた。予想以上に重要な内容であることが、素人目にも明らかであった。
「これは……」私は、思わず息を呑んだ。「今川方の、次の動きが分かるじゃないか」
一益は、静かに頷いた。「はい。この情報があれば、我らは、事前に対策を講じることができましょう」
私は、心の底から安堵した。「助かった……。一益、本当にありがとう」
(訳:これで、また、みんなを危険に晒さずに済むかもしれない)
一益は、その言葉に、珍しく感情を露わにした様子であった。彼の目には、微かな涙が滲んでいるようにも見えた。
「殿……」一益は、震える声で告げた。「これまで、渡り忍びなど、どこへ行っても、道具としてしか扱われたことがございませんでした。命がけで得た情報を、まるで当然のことのように受け取られ、感謝の言葉一つかけられぬことも、珍しくはございませんでした」
私は、その言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。(一益、そんな辛い過去があったのか……)
「されど、殿は、いつも、それがしの働きに、心からの感謝を示してくださいます。この身が、単なる道具ではなく、殿にとって、確かな意味を持つ存在であると――そう感じさせていただけることが、それがしにとって、何よりの喜びにございます」
私は、その言葉に、素直な気持ちで答えた。「一益、お前は、道具なんかじゃない。俺にとって、大切な仲間だ」
(訳:本当に、心からそう思ってる。お前がいなかったら、俺たちは、とっくに危険な目に遭っていたはずなんだから)
一益は、その言葉に、深く頭を垂れた。「殿の御言葉、この一益、生涯、忘れませぬ」
その様子を、傍らで見守っていた利家が、感慨深げに呟いた。「殿は、忍びを信じてくださる……。まことに、稀有な御方よ」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、素直に頷いた。「一益の情報がなかったら、俺たちは、とっくに危ない目に遭ってたはずだからな。感謝するのは、当然のことだよ」
その後、一益がもたらした命令書の内容をもとに、拠点では、迅速な対策が講じられることとなった。予想される今川方の動きに対し、あらかじめ防備を固め、必要な村々には事前の警告を発する。結果として、今川方の作戦は、またしても不発に終わることとなった。
今川方の陣中では、この一件が、さらなる困惑を招いていた。
「なぜ、我らの命令が、事前に漏れているのだ」ある指揮官が、苛立たしげに問うた。「これでは、いかなる策を講じても、無意味ではないか」
軍監は、深いため息をついた。「織田信照なる者、いかなる手を使ってか、我らの内情を、常に把握しておるようだ。まるで、影のように、我らのすぐ傍らに潜んでおるかのような……」
その頃、一益は、拠点の一角で、静かに休息を取っていた。彼の傍らには、小六が座り、酒を酌み交わしていた。
「一益、お主も、ずいぶんと殿に心酔しておるようだな」小六が、からかうように言った。
一益は、珍しく穏やかな表情を浮かべた。「小六殿も、同じ想いであろう。我らのような、日の当たらぬ場所を歩んできた者に、殿は、確かな居場所を与えてくださった」
小六は、深く頷いた。「まことに、その通りよ。わしも、殿のためならば、いかなる危険も厭わぬ覚悟がある」
二人の会話は、静かに、しかし確かな決意と共に、夜の帳の中に溶け込んでいった。私は、その会話を知る由もなく、拠点の一室で、静かに眠りについていた。しかし、四天王それぞれの心の中には、私への確かな忠誠が、日を追うごとに、より強固なものへと育まれていたのである。
その忠誠の根底にあるのは、単なる主従の関係を超えた、深い人間的な絆であった。素性を問わず、能力のみを見て、心からの信頼を寄せる――私のそんな態度が、これまで日の当たらぬ場所を歩んできた者たちにとって、何よりも大きな救いとなっていたことを、この時の私は、まだ十分に理解していなかったのである。




