第三十一話 家康の決断
第三十一話 家康の決断
尾張における一連の出来事は、今川方の先鋒を務める松平元康――後の徳川家康――のもとにも、詳細に伝えられていた。元康は、これまでの戦況を整理した報告書を前に、深いため息をついていた。
「五百の討伐部隊が、戦らしい戦もせぬまま、無人の村々を彷徨わされた挙句、兵糧不足で撤退した、か……」
元康は、その報告に目を通すたびに、胃の痛みが増していくのを感じていた。彼にとって、この一連の失態は、もはや看過できないものになりつつあった。
ある日、元康は、今川方の重臣たちが集う軍議の場に呼び出された。義元直属の重臣たちが、厳しい表情で居並んでいる。
「元康殿。尾張における討伐、いまだ成果を上げられずにおる」重臣の一人が、厳しい口調で告げた。「このままでは、義元様のご期待に応えられぬのではないか」
元康は、深く頭を下げながら、慎重に答えた。「面目次第もございませぬ。されど、この尾張の情勢、これまでの戦のあり方とは、まったく異なるものにございます」
「異なるとは、どういうことか」
元康は、これまでの分析を、丁寧に説明していった。「敵は、正面から戦うことを、徹底して避けております。かといって、単に逃げ回っているわけでもございませぬ。補給線を絶ち、情報を操作し、民を動かし、あらゆる手段を用いて、我らの戦力を消耗させようとしております」
重臣たちは、その説明に、しばし沈黙していた。やがて、一人が問うた。「では、いかにすれば、この者を討ち果たせるのか」
元康は、正直に答えるしかなかった。「正直なところ、それがしにも、確たる策はございませぬ。されど、一つだけ、確かに言えることがございます」
「申せ」
「性急に、大軍をもって攻め立てるだけでは、この敵には通用いたしませぬ。むしろ、時をかけて、じっくりと対策を練るべきかと存じます」
この元康の慎重論に対し、重臣の一人は、強く反発した。「悠長なことを申すな! このまま尾張を放置すれば、義元様の御構想――東海一帯の統一そのものが、揺らぎかねぬのだぞ」
「されど、無策に兵を送り込めば、これまでのように、無駄な消耗を重ねるだけにございます」元康は、なおも慎重な立場を崩さなかった。
軍議は、平行線を辿ったまま、結論を見ないまま終わることとなった。会議を後にした元康は、一人、陣屋に戻りながら、深い葛藤を抱えていた。
(わしは、今川家の人質同然の身。逆らえば、我が身の立場そのものが危うくなる。されど、無策な強硬論に従えば、多くの兵を無駄に失うことになる……)
元康の脳裏には、幼き頃からの、長い忍耐の日々が蘇っていた。今川家の人質として過ごした年月、故郷である三河への望郷の念、そして、いつか独立を果たしたいという、密かな願い――そのすべてが、この決断の重さに、複雑に絡み合っていた。
その夜、元康は、陣屋の一室で、一人の側近と、密かに言葉を交わしていた。
「殿。義元様は、尾張への執着を、決して緩められぬご様子。このままでは、いずれ、無理な強硬策が採られることになりましょう」
元康は、深いため息をついた。「わしも、それを危惧しておる。されど、今のわしには、それを止める力がない」
側近は、慎重に言葉を選びながら、続けた。「殿。いっそ、この機に、殿御自身の立場を、少しでも強めておくべきではございませぬか」
「わしの、立場を……?」
「はい。この尾張の情勢を、誰よりも深く分析し、的確な進言ができるのは、殿をおいて他にございませぬ。義元様の御信頼を、より一層、確かなものにする好機かもしれませぬ」
元康は、しばし考え込んだ後、静かに頷いた。「……確かに、そうかもしれぬな。わしにできることは、まず、この状況を正確に見極め、義元様に的確な進言を続けることであろう」
翌日、元康は、改めて義元本隊への報告書をしたためた。そこには、これまでの戦況の詳細な分析と共に、今後の対応についての、慎重な進言が記されていた。
「織田信照なる者、その戦い方は、従来の兵法の常識をはるかに超えるものにございます。性急な武力による制圧は、かえって我が方の消耗を招くばかりか、この者への評判を、さらに高める結果となりましょう。まずは、時をかけて情勢を見極め、然るべき機を待つべきかと存じます」
この報告書は、義元のもとへ届けられることとなった。義元は、この慎重な進言に、しばし考え込んだという。しかし、この時点では、義元自身、いまだ尾張への強い執着を捨てきれずにいたのである。
その夜、元康は、陣屋の窓から、遠く尾張の方角を見つめていた。(信照とやら、いったい、いかなる者なのだ。わしと同じ、若き身でありながら、これほどまでに、我らを翻弄するとは……)
元康の胸中には、敵への警戒と共に、ある種の、名状しがたい興味も、確かに芽生え始めていた。しかし、その興味が、いつか自分自身の運命と、深く交錯していくことになろうとは、この時の元康には、まだ知る由もなかったのである。




