第三十話 兄上という褒美
第三十話 兄上という褒美
炊き出しの一件以来、お市は、拠点での活動にますます積極的に関わるようになっていた。彼女は、女中たちの取りまとめ役を自ら買って出て、病人の看護や、避難民の世話にも、精力的に取り組むようになっていた。
その働きぶりは、拠点の人々の間でも、確かな評判となりつつあった。「お市様は、まことに慈悲深き御方にございます」――そんな声が、あちこちで聞かれるようになっていたのである。
ある日の夕刻、私は拠点の一室で、藤吉郎と共に、今後の物資配分について相談していた。そこへ、お市が静かに姿を現した。
「兄上、少しよろしいでしょうか」
私は、その声に、思わず表情を緩めた。「ああ、どうした」
藤吉郎は、二人の様子に気づくと、心得たように、静かに部屋を後にした。私は、お市と二人きりになったことに、微かな緊張を覚えながらも、努めて自然に振る舞った。
「今日は、隣村の病人の看護に伺っておりました」お市は、そう切り出した。「幸い、峠は越えたようで、少しずつ快方に向かっているとのことでございます」
「そうか、それは良かった」私は、心からそう答えた。「お前が、そうやって、色々な人を助けてくれているの、本当に助かるよ」
お市は、少し頬を染めながら、微笑んだ。「兄上のお役に立てているのなら、これに勝る喜びはございません」
私たちは、しばらくの間、他愛のない会話を交わした。今日あった出来事、拠点の様子、そして、これからの展望――そんな話題を通じて、私は、お市との時間が、次第に、私にとってかけがえのないものになりつつあることを、実感し始めていた。
会話の途中、お市が、ふと真剣な表情を浮かべて、私に告げた。「兄上。この間、村の方々から、こう言われました。『お市様と信照様は、まことに睦まじき御兄妹であられる』と」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、素直に頷いた。「まあ、俺たちは、確かに、兄妹だからな」
お市は、その言葉に、一瞬、何かを言いかけたように見えたが、すぐに、いつもの優しい笑顔に戻った。「はい、兄上。わたくしたちは、確かに、兄妹でございますね」
その一瞬の間の意味に、私は、まったく気づいていなかった。
会話が一段落した頃、お市は、静かに私に頭を下げた。「兄上、今日はありがとうございました」
「え、何が?」私は、不思議に思って尋ねた。
お市は、少し困ったように微笑んだ。「兄上と、こうしてお話しできる時間が、わたくしにとって、何よりの喜びなのです」
私は、その言葉に、思わず胸が高鳴るのを感じた。(歴史上の美少女に、そんなことを言われると、正直、動揺しちゃうんだけど……いや、妹相手に、そういう感情は絶対にダメだろ!)
私は、必死に平静を装いながら、答えた。「そ、そうか。俺も、お前とこうやって話すの、楽しいよ」
(訳:兄として、妹と仲良く過ごせるのが嬉しい、それだけの意味なんだ。それ以上の意味は、絶対にない)
お市は、その言葉に、心底から嬉しそうな表情を浮かべた。「兄上……」
その柔らかな呼び声に、私は、内心で歓喜の声を上げていた。(お、俺が兄上だ……! 歴史上の美少女にお兄ちゃんと呼ばれてる……! これだけで転生してきた甲斐があった……!)
その様子を、部屋の外からそっと見守っていた利家と藤吉郎は、感極まった様子で、小声で言葉を交わしていた。
「殿とお市様――なんという深き絆でございましょうや」利家が、涙ぐみながら呟いた。
「まことに。殿は、あえてお市様との距離を保ちつつも、その内には、深き慈しみの情を秘めておられる。これぞ、魔王の自制と申すもの」藤吉郎も、深く感じ入った様子であった。
二人の会話を、私もお市も知る由もなかった。私は、ただ、兄として妹を大切にしたいという、純粋な想いのままに、お市との時間を過ごしていた。しかし、その素朴な兄妹の絆が、周囲の目には、まったく異なる形で映っていたのである。
「殿はあえて距離を置いておられる。これぞ冷徹なる魔王の自制……!」誰かが、そう囁く声も聞こえてきた。
お市は、その夜、自室に戻ってから、一人、静かに物思いに耽っていた。「兄上」と呼ぶたびに、胸の奥に、言葉にならない温かさが広がる。しかし、その感情が、単なる兄妹の情愛だけでは説明のつかない、もっと複雑なものであることに、彼女自身、うすうす気づき始めていた。
(この想いは、いったい何なのでしょう……。兄上のことを想うたびに、胸が締め付けられるような、そんな感覚を覚えるのです)
しかし、周囲の人々が「深い絆で結ばれた兄妹」として彼女たちを見つめ、賞賛するたびに、お市の中の、その名付けようのない感情は、いつも「兄妹の絆」という言葉の中に、静かに上書きされていくのであった。
一方、私は、その夜も、久しぶりに、心の底から穏やかな気持ちで眠りについていた。お市との時間、拠点の平穏、そして、少しずつ確かなものになりつつある、この場所への想い――そのすべてが、私にとって、何よりも大切なものへと変わりつつあったのである。
(明日も、お市と一緒に、みんなの役に立てることをやりたいな)
その素朴な願いを胸に、私は、静かに眠りへと落ちていったのだった。




