第二十九話 お市の恩返し
第二十九話 お市の恩返し
保護圏の拡大に伴い、拠点には日を追うごとに多くの避難民や、貧しい暮らしを強いられていた人々が身を寄せるようになっていた。藤吉郎が中心となって整えた炊き出しの仕組みは、そうした人々の生活を支える、重要な基盤となっていた。
ある日、私が拠点の広場を歩いていると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。炊き出しの列に、お市の姿があったのである。彼女は、他の女中たちと共に、大きな鍋をかき混ぜながら、集まった人々に、粥を配っていた。
私は、驚きのあまり、思わず足を止めた。(お市が、こんなところで……?)
お市は、私の視線に気づくと、少し恥ずかしそうに微笑んだ。齢十四に差し掛かった彼女は、あの救出された日から見違えるほど、落ち着いた雰囲気を身にまとうようになっていた。
「兄上」お市が、優しい声で私に呼びかけた。「このように、驚かれましたか」
「あ、ああ……。お前が、こんな場所にいるとは思わなかったから」私は、正直な感想を口にした。
「わたくしも、皆様のお役に立ちたいのです」お市は、鍋の中身をかき混ぜながら、続けた。「兄上が、こうして多くの方々を守っておられるのを見て、わたくしも、何かをせずにはいられませんでした」
私は、その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。(お市が、自分から進んで、こんな風に人助けをしようとしているなんて……)
私は、その場に留まり、お市の手伝いをすることにした。粥の入った器を、並んだ人々に配っていく。子供たちは、嬉しそうに器を受け取り、大人たちは、深々と頭を下げながら、感謝の言葉を口にした。
「信照様、お市様、まことにありがとうございます」
私は、その感謝の言葉を受けながら、何とも言えない充実感を覚えていた。(こうやって、直接、誰かの役に立てるのは、すごく嬉しいな)
作業の合間、私はお市に、ふと尋ねた。「お市、疲れていないか。無理はしなくていいんだぞ」
お市は、少し驚いた様子で私を見つめた後、優しく微笑んだ。「兄上は、いつもわたくしのことを、気にかけてくださいますね」
「そ、それは、当然だろう。お前は、俺の……」私は、言葉に詰まった。「妹」という言葉が、なぜか、うまく口から出てこなかったのだ。
(家族なんだから当然だろって言いたいだけなのに、なんでこんなに緊張してるんだ俺は……)
お市は、そんな私の様子を、じっと見つめていた。その瞳の奥に、微かな戸惑いと、それ以上の何かが揺れているようにも見えたが、私はその機微に気づく余裕もなかった。
「兄上のお傍で、こうして共に働かせていただけること、本当に嬉しゅうございます」お市は、静かにそう告げた。
私は、その言葉に、思わず心が揺れ動くのを感じた。(歴史上の美少女に、そんなことを言われると、正直、動揺しちゃうんだけど……いや、妹に対してこんな感情を抱くのは、絶対にダメだろ!)
私は、必死に平静を装いながら、話題を変えることにした。「そういえば、この粥、思ったより美味しいな」
お市は、少し可笑しそうに笑った。「ふふ、兄上は、そのようなことばかり気にされるのですね」
その様子を、遠くから見守っていた利家が、感極まった声で呟いた。「殿とお市様――なんという睦まじき兄妹の絆でありましょうや」
その言葉を耳にした藤吉郎も、深く頷いた。「殿は、統治のみならず、民の心を掌握する術にも長けておられる。お市様と共に、直に民の前に立たれる――これぞ、真の名君の姿にございましょう」
私はその会話を漏れ聞きながら、内心で複雑な思いを抱いていた。(違う、そんな政治的な意図なんて、全然ないんだけどな……。ただ、お市と一緒に、みんなの役に立ちたかっただけなのに)
炊き出しが終わった後、お市は、疲れた様子を見せながらも、満足げな表情を浮かべていた。私は、彼女にそっと声をかけた。「今日は、本当にありがとう。お前がいてくれて、助かった」
お市は、はにかむように微笑んだ。「兄上のお役に立てたのなら、これほど嬉しいことはございません」
私たちは、しばらくの間、並んで夕暮れの空を眺めていた。橙色に染まる空の下、拠点にはこれまでにない、穏やかな時間が流れていた。
「なあ、お市」私は、ふと思いついたことを口にした。「これからも、こうやって、一緒に何かできたらいいな」
お市は、その言葉に、目を輝かせた。「はい、兄上。わたくしも、そう願っております」
私は、その言葉に、素直な喜びを感じていた。(お市と、こうやって兄妹として、一緒に何かをやっていけるのは、本当に嬉しいことだよな)
その素朴な喜びは、私にとって、何よりも純粋な感情であった。しかし、その傍らで、お市の胸の内に芽生えていた感情が、単なる兄妹の情愛だけでは片付けられない、もっと複雑で、繊細なものであることに、私はまだ、まったく気づいていなかったのである。
夕暮れの中、二人並んで座る兄妹の姿を、拠点に集う人々は、微笑ましく見守っていた。「まことに、お美しい御姿でございますな」誰かがそう呟いた言葉が、周囲の人々の間で、静かに広まっていった。私はその言葉を、ただの兄妹への祝福の言葉として受け止めていたが、その裏に込められた、周囲の人々の深読みには、まだ気づく由もなかったのである。




