第二十八話 百策伝説の始まり
第二十八話 百策伝説の始まり
今川方の五百の討伐部隊が、戦らしい戦もせぬまま撤退したという一件は、今川軍内部に、これまでにない波紋を広げていた。今川方の軍監――義元より、尾張情勢の分析を直々に命じられた老練な武将――は、この一連の事態を、詳細に記録し始めていた。
軍監は、これまでの経緯を、丁寧に書き記していった。桶狭間の後の織田残党の抵抗、幻影のように現れては消える小部隊、正面決戦を避けながらも確実に敵の意図をくじく戦術、そして今回の、無人の村々を彷徨わせただけの討伐作戦の失敗――そのすべてを整理しながら、軍監は、深い違和感を覚えていた。
「これまでの戦、いずれも敗因が異なっておる」軍監は、独り言のように呟いた。「ある時は情報戦、ある時は補給線の攻撃、ある時は民の避難……。まるで、その都度、まったく異なる策を用いておるかのようだ」
軍監は、配下の物見たちを集め、改めて問うた。「織田信照なる者、これまでいかなる戦法を用いてきたか、詳細に述べよ」
物見の一人が答えた。「初めは、単純な奇襲にございました。それが、次第に情報操作を交えるようになり、さらには補給線への執拗な攻撃、そして今回のような、民を巻き込んだ焦土戦術めいたものまで」
軍監は、深く眉をひそめた。「一つとして、同じ策を繰り返しておらぬということか」
「左様にございます」
軍監の脳裏に、ある種の恐るべき仮説が浮かび上がった。「もし、この者が、状況に応じて無限とも思える策を編み出す力を持っているとすれば……我らは、これまでの常識では、到底太刀打ちできぬことになる」
この軍監の分析は、やがて義元本隊にも報告されることとなった。報告書には、こう記されていた。
「織田信照なる者、これまで一度たりとも同じ戦法を用いず、常に状況に応じた新たな策を講じて参りました。その策の多様さ、まさに底知れぬものがあり、我が方の予測を、ことごとく裏切って参ります」
義元は、その報告に、しばし考え込んだという。「一人の若造が、これほどまでに変幻自在な策を用いるとは、にわかには信じがたい話だが……」
しかし、報告の内容は、いずれも事実に基づいたものであった。義元は、次第に、この得体の知れぬ敵に対して、確かな警戒心を抱き始めることとなる。
一方、拠点においては、この「百策伝説」の萌芽となる噂が、私の与り知らぬところで、着実に育まれつつあった。ある日、拠点を訪れた旅の商人が、興味深そうに尋ねてきた。
「信照様は、まことに、これまで一度も同じ策を用いたことがないというのは、真にございますか」
私は、その問いに、正直なところ、面食らってしまった。「え、いや、俺、そんな策略とか、そもそも考えたことなんて、ほとんどないんだけど……」
その傍らにいた一益が、静かに口を挟んだ。「殿は、常に謙遜なさいます。されど、これまでの数々の戦、いずれも殿の御下命が、その根幹にございました」
商人は、感嘆の声を上げた。「これは……まことに恐るべき御方にございますな。すでに、遠く駿河の方でも、『尾張には、百の策を持つ魔王がいる』という噂が広まっておるとのこと」
私は、その言葉に、思わず絶句した。(百の策……? 俺、本当に、そんな大それたこと、何も考えてないのに……)
商人が去った後、私は、複雑な思いを抱きながら、一益に問いかけた。「なあ、一益。俺、本当に、そんなに色々な策を考えてるわけじゃないんだ。ただ、その時々で、みんなに死んでほしくないって、それだけを考えて、言葉を漏らしているだけなんだよ」
一益は、静かに、しかし確信に満ちた口調で答えた。「殿。それこそが、まことの策と申すものにございます。定型の策に頼らず、常に、その時々の最善を、直感的に見出される――これは、生半可な戦略家には、決して真似のできぬことにございます」
私は、その言葉に、もはや反論する気力を失っていた。(俺の直感なんて、全部『怖いから』っていう単純な理由からしか来てないんだけどな……)
その夜、私は寝所で一人、これまでの戦いの数々を、改めて振り返っていた。確かに、私は、その都度、まったく異なる対応を取ってきた。しかし、それは、緻密な戦略に基づくものではなく、ただ、目の前の状況に対する、切実な恐怖と、誰かを守りたいという素朴な願いから生まれた、その場しのぎの言葉に過ぎなかった。
(でも、もし、その『その場しのぎ』が、結果として、みんなを守ることに繋がっているのなら……それは、それでいいのかもしれないな)
私は、そんな複雑な感慨を抱きながら、静かに目を閉じた。私の与り知らぬところで、「百策伝説」は、こうして着実に、その最初の一歩を踏み出していたのである。今川軍の陣中では、この底知れぬ敵の存在が、次第に、単なる軍事的な脅威を超えた、心理的な重圧として、将兵たちの心に深く刻み込まれ始めていた。




