第二十七話 敵はどこだ
第二十七話 敵はどこだ
商人たちの往来が活発になり、拠点周辺には確かな賑わいが戻りつつあった。しかし、その平穏な日々は、決して長くは続かなかった。ある日、一益が緊迫した表情で、私のもとへ駆けつけた。
「殿、火急の報にございます。今川方が、新たな討伐部隊を、この保護圏へ向けて派遣したとの由」
私は、その報せに、思わず身を強張らせた。「規模は……?」
「五百を超える兵にございます。これまでの残存部隊とは、比較にならぬ規模かと」
私の心臓が、大きく跳ねた。(五百人……。これまでとは、明らかに違う規模だ。本格的な討伐作戦なのか?)
拠点は、この報せに、たちまち緊張感に包まれた。四天王が緊急の軍議を開き、対応を協議することとなった。私は、その場で、必死に不安を押し殺しながら、皆の意見に耳を傾けていた。
「五百の兵が、いかなる経路で攻めてくるのか、まずはそれを見極めねばなりませぬ」一益が、冷静に切り出した。
小六が続けた。「川筋からの侵入であれば、我らも先んじて対策を講じられましょう。されど、陸路からの進軍であれば、いくつかの村を経由することになりましょう」
私は、そこで、ふと思いついたことを口にした。「その村々の人たちに、先に避難してもらうことはできないか」
(訳:戦火に巻き込まれる前に、村人たちを安全な場所に逃がしてあげたい)
一益が、深く頷いた。「なるほど……。殿は、戦そのものよりも、まず民の安全を優先されるのですな」
「あ、うん、まあ、そうだな」私は、内心で焦りながらも、そう答えた。
「承知いたしました。ただちに、経路上の村々へ避難の指示を出しましょう」
こうして、今川方の討伐部隊が進軍してくると予想される経路上の村々に対し、事前の避難指示が出されることとなった。村人たちは、これまでの拠点への信頼から、迅速に指示に従い、貴重品や食糧を持って、一時的に安全な場所へと避難していった。
数日後、今川方の討伐部隊は、予定通りの経路を進軍してきた。しかし、彼らが目にしたのは、無人となった村々の光景であった。
「誰もおらぬ……」討伐部隊の指揮官は、困惑した様子で呟いた。「まさか、我らの動きを、事前に察知していたというのか」
指揮官は、部下に周辺の捜索を命じたが、村人たちの姿はどこにも見当たらなかった。家々には、生活の痕跡こそ残っているものの、人の気配はまったく感じられない。
「これは、いったいどういうことだ」指揮官は、苛立ちを隠せない様子であった。「敵の姿すら見えぬのに、我らはただ、空の村を占領するだけなのか」
討伐部隊は、結局、目立った戦果を得ることなく、無人の村々を通過していくしかなかった。しかも、行軍を続けるうちに、補給の問題が徐々に浮上し始めていた。占領した村には、当然ながら、現地での物資調達を期待していたのだが、村人たちが避難する際、食糧のほとんどを持ち去っていたため、討伐部隊は、自らの兵糧のみで進軍を続けねばならなかったのである。
一方、拠点では、避難した村人たちの受け入れ準備が、着々と進められていた。藤吉郎が中心となり、避難民のための一時的な宿泊場所と、食糧の配布体制を整えていた。
「殿、避難してきた村人たちは、皆、無事に保護できております」藤吉郎が報告に来た。
私は、心の底から安堵の息をついた。「よかった……。誰も、戦に巻き込まれずに済んだんだな」
(訳:これが、俺が一番望んでいたことなんだ。誰も傷つかずに、平和が保たれること)
その安堵の様子を見て、一益が、静かに言葉を添えた。「殿の御采配、まことに見事にございました。敵の進軍経路を読み切り、事前に民を避難させる――これぞ、犠牲なくして敵の攻勢を無力化する、まことの用兵にございます」
私は、その言葉に、複雑な思いを抱いた。(進軍経路を読み切ったっていうより、単純に、みんなを逃がしたかっただけなんだけどな……)
数日後、今川方の討伐部隊は、目立った戦果を得られないまま、兵糧の不足に苦しみ始め、ついには撤退を決めることとなった。この報せが拠点に届いた時、拠点全体に、これまでにない歓喜の声が広がった。
「殿は、戦うことなく、五百の敵を退けられたのだ!」
「まさに、血なき勝利にございます!」
私は、その歓喜の輪の中で、ただ静かに、避難していた村人たちが無事に帰還する様子を見守っていた。子供たちが元気に走り回り、大人たちが安堵の表情を浮かべながら、家々の様子を確認していく。その光景を見つめながら、私は、深い安堵と共に、確かな充実感を覚えていた。
(誰も傷つかず、みんなが無事に帰ってこられた。俺にとっては、これ以上の勝利はないんだ)
その素朴な想いこそが、この時の私にとって、何よりも大切な、揺るぎない本音であった。しかし、この一件もまた、今川軍にとっては、実体を掴めぬ恐るべき脅威として、さらなる語り草となっていくことになるのだった。




