第二十二話 沈黙の深み
第二十二話 沈黙の深み
駿河への侵攻を回避したことで、拠点にはひとまずの平穏が戻ったかに見えた。しかし、その平穏は、決して長くは続かなかった。拠点の規模が拡大するにつれ、私に持ち込まれる相談事もまた、日々増え続けていたのである。
ある日、林秀貞をはじめとする旧臣たちが、揃って私の前に現れた。彼らの表情は、これまでになく深刻なものであった。
「殿。今後の統治方針について、改めてご相談申し上げたく存じます」
「統治方針……?」私は、その言葉に、すでに嫌な予感を覚えていた。
「はい。これほどまでに勢力が拡大した以上、各地の代官の任命、年貢の取り決め、さらには軍制の整備――決めるべきことが、山積しております」
私は内心で頭を抱えた。(そんなの、俺に分かるわけないだろ……。歴史オタクの知識はあっても、実際に統治のノウハウなんて、まったく持ち合わせていないんだから)
その日は、朝から晩まで、様々な陳情と相談が続いた。境界を巡る村同士の争い、年貢の負担を巡る不満、さらには家臣団内部での役割分担を巡る調整――どれもこれも、私一人の判断で決められるようなものではなかった。
夕暮れ時、ようやく最後の陳情が終わった時、私はすでに、精神的にも肉体的にも、限界に達していた。頭の中がぐるぐると回り、思考がまとまらない。責任の重さ、期待の重さ、そのすべてが、一気に押し寄せてくるような感覚があった。
(もう、無理だ……。これ以上、考えられない。頭が、割れそうだ)
私は、その場に崩れ落ちるようにして、寝所へと逃げ込んだ。誰にも何も告げることなく、ただひたすら、布団の中に潜り込む。そして、そのまま、泥のように深い眠りに落ちていった。
翌朝になっても、私は目を覚まさなかった。昼を過ぎても、夕方になっても、私は寝所の中で、ただひたすら眠り続けていた。
拠点では、この異常なまでの「殿の御沈黙」に、次第にざわめきが広がっていった。
「殿が、丸一日以上、お目覚めにならぬ……」
「これは、いったい何を意味するのであろうか」
利家は、心配そうに寝所の前で立ち尽くしていた。「殿……大事ないのでしょうか」
一益が、静かに近づいてきて、利家に語りかけた。「利家殿。これは恐らく、殿の深いお考えあってのことにございましょう」
「深いお考え……?」
「これほど拠点の規模が拡大し、決めるべき事柄が山積している中、殿は表立って動かず、あえて沈黙を選ばれた。これは、拙速な判断を避け、じっくりと熟考なされているのではございませぬか」
利家は、その言葉に、次第に納得の色を浮かべ始めた。「なるほど……。殿は、常に軽々しく動くことをなさらぬ御方。この沈黙も、また一つの深謀遠慮なのやもしれませぬな」
こうして、私のただの精神的限界による現実逃避――つまるところの「寝込み」は、またしても、家臣たちの間で「深い熟考のための沈黙」として解釈されることとなった。
その一方で、今川軍にも、この異変の噂は届いていた。
「織田信照、丸一日以上、姿を見せず、動きを止めておるとの由」
今川方の物見からの報告に、軍監は思わず眉をひそめた。「動きを止めた、だと……? 何を企んでおるのだ」
これまで、幻影の織田軍と称されるほど、神出鬼没な動きを見せてきた織田勢が、突如として活動を停止した。この事実は、今川方にとって、むしろ不気味な沈黙として映った。
「もしや、これは、何か大規模な作戦の準備をしているのではないか」
「あるいは、我らを油断させるための、罠なのやもしれぬ」
今川軍は、この不可解な沈黙に対し、次第に警戒を強めていった。うかつに動けば、何らかの罠にかかるのではないかという疑心暗鬼が、軍全体を覆い始めていたのである。結果として、今川軍は、この期間、目立った軍事行動を一切控えることとなった。
私は、その頃、そんな外部の状況などまったく知らぬまま、ただひたすら眠り続けていた。二日目の夜、ようやく私は目を覚ました。窓の外はすでに暗く、月明かりが静かに寝所を照らしていた。
「……あれ、俺、どれくらい寝てたんだ?」
私は、ぼんやりとした頭で身を起こした。体はだるく、頭も重かったが、心なしか、精神的な重圧は少し軽くなっているような気がした。
寝所を出た私を、利家が興奮した様子で迎えた。「殿! お目覚めになられましたか!」
「あ、ああ……。すまない、ずいぶん長く眠っていたようだ」私は、申し訳なさそうに答えた。
「いえいえ、殿が御眠りの間、今川軍は一切の動きを見せませんでした。まさに、殿の御沈黙が、敵を足止めしたのでございます!」
(は? 俺が寝てたから、今川軍が動かなかった……? いや、それ、ただの偶然だよね?)
私は困惑しながらも、もはや訂正する気力もなく、ただ曖昧に頷くしかなかった。「そ、そうか……」
こうして、寝ているだけで敵軍が足止めされるという、なんとも奇妙な出来事が、また一つ、拠点の伝説として積み重ねられていったのである。私自身は、ただ精神的な限界から逃げ出しただけであったが、その結果もたらされた「何もしない」という状態そのものが、皮肉にも、今川軍にとって最も対処しにくい脅威として機能していたのであった。




