第二十一話 駿河には行きたくない
第二十一話 駿河には行きたくない
第1部の終わりから数日が経ち、拠点にはいまだ祝賀の余韻が漂っていた。今川軍が尾張から撤退したという報せは、周辺の村々にも次々と伝えられ、そのたびに新たな寄進や忠誠の申し出が拠点に届けられている。
私はといえば、その祝賀ムードに、まったくついていけずにいた。連日、家臣たちが浮かれた様子で今後の展望を語り合うのを、私はただ、遠い目で眺めているしかなかった。
(みんな、嬉しそうにしてるけど……俺は全然嬉しくない。むしろ、これからどうなるのか、不安でしかないんだけど)
ある日の軍議の場で、利家が満面の笑みを浮かべながら、意気揚々と切り出した。
「殿! 尾張からの今川軍撤退、まことにめでたきことにございます! しかし、これで満足していては、真の勝利とは申せませぬ」
私は嫌な予感がした。(まさか……)
「今こそ、この勢いに乗じて、駿河へと逆侵攻すべき時にございましょう!」
案の定であった。私は思わず、大きな声を上げそうになるのを、必死に堪えた。
「い、いや、待て。駿河への侵攻なんて、そんな……」
(訳:無理に決まってるだろ! 義元はまだ四万もの兵力を持ってるんだぞ! 尾張から撤退したのだって、単に割に合わないと判断しただけで、今川家そのものが弱体化したわけじゃないんだから!)
利家はなおも熱を込めて続けた。「殿。我らはすでに、今川軍を尾張から追い払うという偉業を成し遂げました。この勢いをもってすれば、駿河への逆侵攻とて、決して不可能ではございますまい」
「利家、待ってくれ」私は必死に言葉を絞り出した。「攻めない。守るだけだ」
その言葉に、広間がしんと静まり返った。誰もが、私の発言の意図を測りかねている様子だった。
(訳:本当に、これ以上、戦を大きくしたくないんだ。俺たちが今持っているものを守るだけで、十分すぎるくらいなんだから)
利家は少し戸惑った様子で問い返した。「殿は、これ以上の拡大をお望みではない、と……?」
私は必死に頷いた。「そうだ。俺たちは、今川軍を追い払い、多くの村々を守ることができた。それだけで十分だ。これ以上、駿河にまで攻め込む必要はない」
しばしの沈黙の後、一益が静かに口を開いた。「なるほど……。殿は、時機を待っておられるのですな」
「え?」
「今、駿河へ攻め込めば、義元公は当然、本国を守るために全力で応戦してまいりましょう。しかし、今の我らの力では、その全面対決に勝てる保証はございませぬ。殿は、そのことを見越した上で、あえて『攻めない』という選択をなされたのですな」
私は内心で叫んだ。(そうじゃない! 単純に、俺が怖いだけなんだ! 全面対決とか、絶対に嫌なんだよ!)
しかし、私の口から出た言葉は、それとはまったく違うものであった。「……その通りだ。今はまだ、その時ではない」
(もう、否定する気力もない……。訂正しても、どうせ違う解釈をされるだけだし……)
藤吉郎もまた、深く感じ入った様子で頷いた。「殿の御慎重さ、まことに恐れ入りまする。功を焦り、身の丈に合わぬ戦を仕掛ければ、これまで積み上げてきたものすべてを失いかねませぬ。殿は、そのことを誰よりも深く理解しておられるのですな」
利家は、しばし考え込んだ後、深く頭を下げた。「殿の御深慮、それがしの浅慮、恥じ入るばかりにございます。この利家、殿の御下知があるまで、しばし牙を研ぎ、時を待ちましょうぞ」
私は、その言葉に、ようやく心の底から安堵した。(よかった……。これで、しばらくは大きな戦を避けられそうだ)
軍議が終わった後、私は一人、縁側に座り込み、深いため息をついた。(本当に、危なかった……。駿河への侵攻なんて、絶対に無理だ。俺たちは今、たまたま上手くいっているだけで、決して今川家そのものに勝てるわけじゃないんだから)
その時、一益がそっと私に近づいてきた。「殿。先ほどの軍議、まことに見事な御采配にございました」
「え、あ、ああ……」私は曖昧に頷いた。
一益は続けた。「殿は、決して弱腰なのではなく、常に最善の一手を選んでおられる。この一益、改めて、殿への忠義を新たにいたしました」
私はその言葉に、複雑な思いを抱きながらも、努めて平静を装った。(弱腰なんだよ、実際は。でも、それでみんなが納得してくれるなら、それでいいのかもしれない)
その夜、私は寝所で一人、これからのことを考えていた。(このまま、守りに徹する方針を続けていけば、大きな犠牲を出さずに済むはずだ。天下取りなんて、俺には全然興味がない。ただ、今ある平和を、できるだけ長く続けたいだけなんだ)
その素朴な願いは、この時の私の中で、確かな指針として存在していた。しかし、その願いが、後にどのような形で、家臣たちの解釈を通じて、より壮大な物語へと変貌していくのか、この時の私は、まだ十分に理解していなかったのである。
窓の外では、拠点に集う人々の、穏やかな夜の営みが続いていた。私はその音に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。少なくとも、この夜だけは、駿河への侵攻という悪夢のような話題から解放され、静かに眠ることができそうだった。




