第二十話 尾張の魔王
第二十話 尾張の魔王
尾張からの今川軍撤退が確定的になった頃、拠点の様相は、当初のみすぼらしい廃寺の姿からは、もはや想像もつかないほどに変貌を遂げていた。しっかりとした木柵に囲まれ、幾つもの蔵が並び、数百名を超える人々が日々の暮らしを営んでいる。かつて、雨漏りのする板間で震えていた私の姿を知る者は、今やほとんどいなくなっていた。
蔵にはかつてないほどの寄進が積み上がっていた。米俵の山は、もはや数えることすら難しいほどであり、反物や武具、さらには金銀までもが、日々拠点へと運び込まれてくる。援軍を志願する者も後を絶たない。近隣の村々のみならず、遠方の豪族からも、続々と使者が訪れるようになっていた。
私はその光景を、ある種の呆然とした思いで眺めていた。(この蔵、もう入りきらないんじゃないか……。俺、こんなに物が集まってくることなんて、望んでなかったのに)
その日、四天王が揃って私の前に現れた。彼らの表情には、これまでにない高揚と、確かな自信が漲っていた。上座に座る私に向かい、利家が真っ先に口を開いた。
「殿、次はいよいよ駿河へ逆侵攻でございますね!」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず布団に潜り込みながら、心の中で絶望の叫びをあげた。
(いや! 俺は守りたいだけなんだけど!? なんでそうなるの!? 駿河への侵攻とか、そんなの絶対に無理だ! 義元は四万もの兵を持ってるんだぞ!)
「殿? いかがなされました」利家が、不思議そうに問いかけてきた。
私は必死に平静を装いながら、震える声で答えた。「い、いや、少し疲れただけだ。しばし、休ませてくれ」
(訳:もう限界だ、これ以上大きな話にしないでくれ、頼むから……)
四天王たちは、そんな私の様子を見て、互いに顔を見合わせた。一益が静かに口を開いた。「殿は、慎重に時機を計っておられるのやもしれませぬ。無理に急かすべきではございますまい」
藤吉郎も頷いた。「これほどまでの大事、殿がお一人で決断されるには、あまりにも重い判断にございましょう。しばし、御思案の時をお与えするのが良策かと」
小六もまた、静かに言葉を添えた。「殿は、これまでも常に、慎重かつ的確な采配を下してこられました。今回もまた、然るべき時に、然るべき御下命があるはずにございます」
私はその会話を、布団の中で聞きながら、内心で頭を抱えていた。(違う、そんな深い理由なんてない。ただ、単純に怖いだけなんだ。駿河への侵攻とか、考えただけで胃が痛くなる)
四天王たちが退室した後、私は一人、布団の中で静かに思考を巡らせていた。(このまま、俺はどんどん引き返せないところまで進んでいくんじゃないか。天下取りとか、そんな大それたこと、俺には絶対に無理なのに)
しかし、その私の内心とは裏腹に、すでに尾張の外――東海一円では、こんな評判が語られ始めていた。
「尾張には、戦を厭いながらも決して負けぬ、恐るべき魔王がいるらしい」
「今川の大軍を相手に、正面から戦うことなく、じわじわと追い詰め、ついには撤退させたという」
「その魔王は、決して民を虐げることなく、むしろ慈悲深く、多くの者から慕われているという」
そんな噂が、商人たちの口を通じて、あるいは旅の僧侶たちの語りを通じて、少しずつ、しかし確実に、東海地方全体へと広まりつつあった。誰も、その「魔王」の正体が、ただ布団の中で震えている、一人の気弱な青年であることなど、知る由もなかったのである。
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を改めて振り返っていた。桶狭間の敗戦の報せを聞いた、あの絶望的な夜。前田利家との運命的な出会い。木下藤吉郎、滝川一益、蜂須賀小六――それぞれに深い事情を抱えた仲間たちとの邂逅。お市との、心震える対面。そして、四天王の正式な任命。
(振り返ってみれば、本当にあっという間だった。それなのに、俺の周りは、こんなにも大きく変わってしまった)
私は、寝所の窓から差し込む月明かりを見つめながら、静かに呟いた。「俺は、これから、どうなっていくんだろうな……」
その問いに、答えてくれる者は誰もいなかった。しかし、その問いの中に込められた私の切実な願いだけは、確かなものであった。
(俺はただ、みんなが平和に暮らせる場所を、守りたいだけなんだ。天下とか、そんな大それたものは、俺には必要ない。ただ、この拠点にいる皆が、これからも笑って暮らせれば、それでいいんだ)
その願いは、この時の私にとって、何よりも純粋で、切実な本音であった。だが、その素朴な願いが、この先どのような形で、より大きな物語へと変貌していくのか――そして、私自身の意志とはまったく無関係に、天下という壮大な舞台へと押し出されていくことになるのか、この時の私は、まだ何一つ想像もしていなかったのである。
翌朝、拠点の広場には、すでに多くの人々が集まっていた。彼らは口々に、これからの展望を語り合っている。「次は駿河か」「いや、まずは尾張の完全な安定が先だろう」「殿の御決断を、我らは信じてお待ちすればよい」――そんな会話が、あちこちで交わされていた。
私は、その光景を、拠点の一室からそっと覗き見ながら、深いため息をついた。(俺の与り知らぬところで、どんどん話が大きくなっていく……。これ、本当にこのままでいいのかな)
不安は尽きなかった。しかし、同時に、私の中には、確かな決意もまた芽生え始めていた。
(どんなに周りが勝手に話を大きくしても、俺だけは、絶対に忘れない。俺が本当に望んでいるのは、天下でも権勢でもない。ただ、みんなが平和に、笑って暮らせる場所を守ることだけなんだ)
こうして、逃げることしか考えていなかったはずの一人の青年は、誰にも望まれぬまま、しかし確かな一歩を踏み出しながら、「尾張の魔王」としての道を歩み始めることになったのである。
尾張の空には、久しぶりに晴れ渡った青空が広がっていた。かつて桶狭間の敗戦により、絶望という名の土砂降りに沈んでいたこの地は、今や、新たな希望の光に照らされ始めていた。しかし、その光の中心にいる青年自身は、いまだ布団の中で、静かにため息をつき続けているのだった。
――第1部「泥濘の尾張に、幻影の織田軍を見た」・完――




