第十九話 尾張撤退
第十九話 尾張撤退
補給線を絶たれ続け、住民の協力も得られない今川軍は、次第に消耗していった。今川軍の陣中では、日を追うごとに、厭戦の空気が色濃くなっていった。兵糧は思うように届かず、兵たちの士気は目に見えて低下していく。義元本隊からも、撤退を検討する声が上がり始める。
義元の重臣の一人が、駿府の本国へ向けて、深刻な報告書をしたためていた。
「尾張の情勢、依然として好転の兆し見えず。占領した村々は次々と離反し、代官を送り込んでも、まともに機能する例が稀に候。加えて、補給線への襲撃、絶えることなく続いており、将兵の消耗、著しきものに候」
義元自身も、この報告に頭を悩ませていた。上洛ではなく、東海の巨大国家建設という壮大な構想を掲げていた義元にとって、尾張の完全な吸収は、その構想の最も重要な一里塚であったはずだ。それが、これほどまでに手こずるとは、義元自身、予想だにしていなかったことであった。
「尾張に居座り続けるだけの利がない」
義元付きの重臣たちの間で、そんな声が次第に大きくなっていった。「これ以上、この地に固執すれば、駿河・遠江・三河の統治にすら支障を来しかねませぬ」
「されど、尾張を完全に手放せば、これまでの犠牲が無駄になりましょう」
議論は幾度となく繰り返されたが、最終的には、一部の部隊が、静かに尾張からの撤退を始めることとなった。特に、拠点周辺の保護圏に接する地域からは、今川方の駐留兵が、順次引き上げていったのである。
この撤退の報せは、一益の情報網を通じて、瞬く間に拠点にも届けられた。
「殿! 今川軍の一部が、尾張から撤退を始めましてございます!」一益が、珍しく高揚した様子で報告に来た。
その報せが届いた時、私は心の底から安堵の息を漏らした。緊張の糸が、ふっと緩んでいくのを感じる。
「よかった……。これでようやく、平和に暮らせる」
(訳:もう戦とかいいから、静かに暮らしたい。誰も傷つかずに、この日々を続けていきたい)
私の言葉は、心の底からの、切実な願いであった。しかし四天王たちの受け取り方は、私の想いとはまったく違うものであった。
「殿は、すでにこの勝利を見通しておられたのだ」利家が、感嘆の声を上げた。「補給線を絶つという策、まさに、この撤退という結末をお望みになってのことだったのですな」
「いや、そこまでは……」
私の弱々しい反論は、しかし、誰の耳にも届かなかった。藤吉郎もまた、深く頷いていた。「殿の御慧眼、まことに恐るべきものにございます。義元公の真意を見抜き、その弱点を的確に突く――これぞ、まさに神算鬼謀」
尾張中に「魔王が今川を退けた」という噂が広がり、拠点には歓喜の声と共に、さらなる寄進の申し出が殺到した。これまで様子を見ていた豪族や寺社までもが、こぞって拠点へ使者を送り、忠誠を誓う旨を伝えてきたのである。
拠点の広場には、日を追うごとに、多くの人々が集まるようになっていった。米俵、反物、武具――様々な品々が、次々と拠点へ運び込まれていく。私はその光景を、ある種の呆然とした思いで眺めていた。
(俺はただ、みんなが平和になればいいって、それだけを願っていただけなのに……。それがこんな結果になるなんて、正直、まだ実感が湧かない)
その夜、私は寝所で一人、これまでの日々を振り返っていた。桶狭間の敗戦の報せを聞いた、あの絶望的な夜から、まだそれほど長い時間が経っているわけではない。それなのに、自分を取り巻く状況は、想像もしなかったほど大きく変わってしまっていた。
(利家、藤吉郎、一益、小六――四天王と呼ばれるようになった仲間たち。お市。そして、今や俺の名を慕う、数多の人々……)
私は、自分がこれほど多くの人々に囲まれる存在になるとは、この世界に来た当初、まったく想像していなかった。ただ、生き延びることだけを願っていたはずの自分が、いつの間にか、多くの人々の希望の象徴として語られるようになっている。その事実に、私はある種の戸惑いと、そして――言葉にしがたい、複雑な感慨を抱いていた。
(俺は、これでいいんだろうか。このまま、みんなの期待に応え続けることができるんだろうか)
不安は尽きなかった。しかし同時に、拠点に集う人々の顔に浮かぶ、確かな安堵と希望の色を見るたびに、私の中に、ある種の使命感にも似た想いが、少しずつ芽生え始めてもいた。
(せめて、この人たちだけは、絶対に守り抜きたい。それだけは、俺の中で、絶対に譲れない想いなんだ)
その想いこそが、この時の私にとって、唯一確かな指針であった。天下を望むことも、権勢を望むこともない。ただ、目の前にいる人々の平穏な暮らしを、なんとかして守り抜きたい――その素朴な願いだけが、私を突き動かす原動力となっていたのである。
窓の外では、拠点に集う人々の、穏やかな寝息と、遠くから聞こえる虫の声が、静かに響いていた。私はその音に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。明日もまた、新たな試練が待ち受けているであろうことを、私はどこかで予感していた。しかし、この夜だけは、久しぶりに、心の底から安らかな眠りにつくことができたのである。




