第二話 魔王最初の隠れ家
第二話 魔王最初の隠れ家
一夜明け、雨はようやく小降りになっていた。泥濘に染み込んだ血の匂いが、湿った空気に混じって鼻をつく。私は震える足でそっと廃屋の外へ出て、昨夜の戦の爪痕を目にした。
打ち捨てられた槍、割れた具足、そしてまだ生々しい――それ以上は考えたくなかった。私は慌てて視線を逸らし、屋内へと戻った。
しばらくして、意気揚々と戻ってきた利家が、私の前で威勢よく報告を始めた。
「殿! 今川の先鋒隊、見事に蹴散らして御覧に入れましてございます!」
その顔には返り血がこびりついていたが、本人はまるで気にした様子もなかった。むしろ誇らしげですらある。
私は内心で絶望しながらも、表向きは重々しく頷いた。(もう、後戻りはできないんだな……)
しかし、私が今求めていたのは、ただ一つのことだった。もっと安全な場所、もっと人目につかない隠れ家。私は疲れた声で切り出した。
「利家、頼みがある。ここより堅固な城か砦はないか。人目に付かぬ、奥まった場所がいい」
(訳:早く逃げ込める場所に隠れたい。誰にも見つからないところに)
利家は深く頷いた。腕を組み、しばし思案する様子を見せた後、はっと目を見開いた。
「北にある荒れ寺の跡、かつての砦にございます。あそこならば――なるほど、敵をおびき寄せる誘いの拠点とするおつもりですな!」
「え」
「守るための砦ではなく、敵をおびき出す罠として使う。表向きは無防備を装い、油断した敵を誘い込んで一網打尽にする。さすがは殿、常人には及びもつかぬ発想……!」
(違う。ただ隠れたいだけなんだ。誘い込む気なんて欠片もない)
しかし私が口を挟む間もなく、利家はすでに敗残兵たちを率いて、廃寺の補修に取り掛かっていた。崩れた土塀が組み直され、堀の代わりに水路が引かれる。数日のうちに、みすぼらしい廃寺は簡素ながらも「拠点」の体を成していった。
私はその様子を、遠くから眺めるしかなかった。誰も彼もが、私の一言をきっかけに、勝手に動き、勝手に何かを成し遂げていく。私自身は、ただ怯えて隅の方で震えているだけだというのに。
拠点の整備が進む中、私は与えられた奥の一室に籠り、これからのことを必死に考えていた。(この世界では、桶狭間の結果すら変わっている。歴史の知識なんて、もはや当てにならない。どうすれば、目立たずに、平穏に生き延びられるだろうか……)
その頃、今川方の斥候がこの動きを察知する。物見の兵が、遠くの木立からじっと拠点の様子を窺っていた。
「織田の残党が、北の廃寺に集結しております」
物見の報告に、今川の陣代官は眉をひそめた。地図を睨みながら、独り言のように呟く。「あの辺りは何もない土地のはず。何を企んでおる……」
拠点に旗一本立ったわけでもない。ただ、廃屋が砦らしくなっただけだ。それだけのことが、疑心を生む。今川軍は元々、桶狭間での圧勝により尾張への警戒を緩めていたが、この一件をきっかけに、再び斥候の数を増やすことになった。
私はその頃、寺の奥の一番暗い部屋で膝を抱え、震えていた。窓の外から漏れ聞こえる、兵たちの威勢の良い声。彼らは私を「殿」と呼び、まるで救世主のように扱う。だが私自身は、ただ怖くて仕方がなかった。
「もう、これ以上大ごとにしないでくれよ……」
私は誰にともなく、そう小さく呟いた。それは、本当にただの弱音であった。責任を負いたくない、目立ちたくない、静かに暮らしたい――それだけの、あまりにも情けない本音。
その呟きを、たまたま部屋の外を通りかかった若い兵が聞きつけた。彼は足を止め、しばし呆然とした後、感涙にむせびながら仲間へ伝えた。
「殿は、これ以上罪なき血が流れることを厭うておられるのだ……。あの勝ち戦の後ですら、ご自身の武功を誇ることなく、これ以上の犠牲を案じておられる」
「なんと、慈悲深き御方であろうか」
その話は、瞬く間に拠点中に広まった。私の弱々しい愚痴は、いつの間にか「民を思う名君の言葉」として語られるようになっていた。
数日後、拠点にはさらに数名の浪人が加わっていた。噂を聞きつけ、藁にもすがる思いでやってきた者たちだ。利家は彼らを歓迎し、拠点の防備をさらに固めていった。
私はその様子を眺めながら、ただただため息をつくしかなかった。(俺が望んでいるのは、こんな大所帯じゃないんだけどな……)
しかし、時代の流れは、私の弱々しい願いなど意に介さず、着実に大きなうねりへと変わりつつあった。廃寺の一室で膝を抱える私の背後で、こうしてまた一つ、「慈悲深き魔王」の噂が積み重なっていったのである。




