第一話:尾張の落日と、狂犬の忠義
第一話:尾張の落日と、狂犬の忠義
永禄三年、五月。
尾張国は、絶望という名の土砂降りに沈んでいた。
低く垂れ込めた黒雲が、山々の稜線すら淡く塗り潰し、大地を叩きつける雨粒は、まるで天そのものが血の涙を流し、哭き喚いているかのようであった。
豪雨は容赦なく粘土質の土を穿ち、泥濘を創り出し、そこに無数の屍と棄てられた武具を呑み込んでいく。風が吹くたび、青臭い草の匂いに混じって、生臭い血と糞尿、そして焦げた家屋の臭気が鼻腔を刺した。
「御屋形様が……御屋形様が、討ち死になされたぁぁぁっ!」
ぬかるんだ村落の小径を駆け抜けていく敗残兵の悲鳴が、遠雷の轟音にかき消されながらも、悲痛に響き渡る。
具足を脱ぎ捨て、泥にまみれて這うように逃げる者。傷口から溢れ出る血をただの手布で必死に抑え、天を仰いで慟哭する者。竹槍を握りしめた現地の土民に囲まれ、命乞いも虚しく串刺しにされる武士の絶叫。
駿河の太守・今川治部大輔義元が率いる四万という途方もない大軍勢を前に、尾張の雄であった織田家は、桶狭間の地にて事実上崩壊したのである。
――歴史が、狂っている。
朽ち果てた廃屋の、雨漏りが激しい板間で目を覚ました私は、己の置かれた状況に全身の血が凍りつくような戦慄を覚えていた。
天井の破れ目からは冷たい雨水が容赦なく滴り落ち、私の着物の衿元を濡らしている。埃と黴、そして乾いた藁の香りが充満する暗闇の中、私は震える己の手のひらをじっと見つめた。
骨ばった手首、日焼けして泥に汚れ爪の間に黒い土が詰まった指先、そして着物の下で確かに漲る、これまで感じたことのないほど強靭な筋肉と脈動。
私の中にあるのは、現代日本において歴史学を専攻していた、しがない大学生としての記憶であった。
奨学金の返済に頭を抱え、大学の図書室で古文書をめくり、卒論のテーマに「桶狭間合戦における今川軍の兵站と行軍ルート」を選び、何度も愛知県の現地へ通っては、当時の合戦図と現在の地図を突き合わせて模写していた、あの平凡で平和な日々の記憶。
だが、今の私の五感が捉えているのは、間違いなく本物の、泥と血と死の匂いが満ちた戦国時代の現実であった。
(桶狭間で織田信長が負けた……?
馬鹿な。そんな歴史があり得るか。奇襲は成功するはずだったんだ。豪雨という天の恵みを受け、視界を奪われた今川の本陣に対し、織田軍の精鋭が一撃で義元の首を討ち取る。それが、この国の歴史を形作るはずだった……!)
私は頭を抱え、必死に記憶の奥底を手繰り寄せた。
永禄三年五月十九日。史実であれば、信長は清洲城を出陣し、熱田神宮で戦勝を祈願し、善照寺砦を経て、あの奇跡的な勝利を掴み取るはずだった。
しかし、何が狂ったというのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
信長が死んだ。
それだけで十分に終わりだ。
(考えている場合じゃない……!
理由が何であれ、現実として織田信長は死んだんだ。織田本家は壊滅し、尾張の主勢力は瓦解した。そして今、今川の誇る四万の軍勢と、それに群がる落ち武者狩りの軍勢が、尾張全土を押し潰そうと雪崩れ込んできているんだぞ……!)
表からは、苛烈を極める落ち武者狩りの気配が、刻一刻とこの廃屋へ迫ってきているのが分かった。
ぬかるみを行く無数の馬蹄の音。甲冑が擦れ合う乾いた金属音。荒々しい男たちの怒号と、それに答える悲鳴。遠くでは、どこかの村が焼け落ちる炎の音さえ聞こえてくるようだった。
私は震える手で、傍らの藁の中に転がっていた布切れを拾い上げ、そこに硬く乾燥した糒――干し飯を包んだ。
武術の嗜みなど当然ない。刀の抜き方すら知らぬこの身が、落ち武者狩りや今川の雑兵と遭遇すれば、ひとたまりもなく首と胴体が泣き別れになる。
(逃げなければ。殺される。唯一の頼みだった歴史知識は、桶狭間が狂った時点で既に崩れ去っていた。命さえあれば、どこか誰も来ない山奥へ逃げて、農民にでもなって静かに生き延びてやる……!)
パニックで激しく打ち鳴らされる心臓を抑え、夜逃げの支度を整えようとした、まさにその時であった。
――破ァッ!!
凄まじい轟音とともに、廃屋の腐りかけた板戸が木の葉のように吹き飛び、豪雨と冷気とともに一匹の夜叉が室内に転がり込んできた。
破れかけた虎皮の陣羽織。血と泥、そして雨水がぐちゃぐちゃに混ざり合い、全身から黒赤い煙のような湯気が立ち上っている。その手には、身の丈を悠に越える、血塗られた朱塗りの大槍。
そして何より、暗闇の中でギラギラと飢えた獣のような光を放つ双眸が、射抜くように私を捉えた。
(……終わった)
私の五体の毛穴という毛穴から、どっと冷や汗が吹き出した。
今川の精鋭か、あるいは略奪を好む凶悪な野盗か。いずれにせよ、人間離れした体躯と殺気を纏うこの巨漢の前に、無力な私など、虫ケラのように踏み潰される未来しか見えない。
喉の奥がカラカラに渇き、声すら出なかった。ただただ、膝の力が抜け、がくがくと震えを抑えることができない。心臓が喉の奥までせり上がってくるような感覚に、ただ耐えるしかなかった。
しかし、殺気に満ちて飛び込んできた巨漢は、私の顔をまじまじと見つめた刹那、雷に打たれたかのように硬直した。
槍を構えたまま、まるで時間が停止したかのように動きを止める。男の荒い息遣いだけが、狭いボロ屋の中に響いていた。
「そ、その御顔立ち……」
男の声が、微かに掠れていた。その巨躯からは想像もつかないほど、切実に、震える声音であった。
「もしや……亡き信秀公の鋭き御面影を色濃く残される、九男・信照様に……ござりませぬか。まるで若き日の信秀公を見ているようにござる」
(……信照?)
私の脳内で、歴史の記憶がぼんやりと動き出した。
織田信秀の息子たちの中に、歴史の表舞台にはほとんど名が出ず、母の身分があまりにも低かったために家督争いの対象にすらならず、尾張の片隅で放置されていたとされる庶子がいた気がする。
記録もほとんど残っていない、影の薄い人物だったはずだ。
(いや待て……誰だそれ。信長の異母弟に、そんな名前がいた気がする……。ほとんど記録も残っていない人物ではなかったか。まさか、俺が……?)
内心で激しく動揺している私をよそに、巨漢は突然、持っていた朱槍を床に放り投げた。ドスンという重い音が響き、彼は床板が割れんばかりの勢いで板間に平伏した。
雨に濡れた髷からぽたぽたと水滴が滴り落ち、板間に小さな血混じりの水溜まりを作っていく。
「某、前田又左衛門利家と申す者!
些末な諍いにて信長公の逆鱗に触れ、浪人の身にござったが……主君討ち死にの痛恨の訃報に接し、もはや腹を召して命を捨てようと、この廃屋に参りたれば……!」
(前田利家!?
そうか、史実のこの時期、彼は同朋衆の拾阿弥を斬り殺した件で信長の勘気を被り、出仕停止の身として浪人していたはず……!)
「まさか、このような辺土の廃屋に、信照様がお隠れであったとは……! 天は、天はまだ織田の御家を見放してはおらなんだぁぁっ!」
泥に顔を擦り付け、ボロボロと大粒の涙を流して慟哭する利家。
そのあまりの気迫、内に秘められた圧倒的な熱量に押し潰されそうになりながら、私は引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に抑え込んだ。
声が上ずらないよう、重々しく、腹の底から絞り出すような低い声を意識して発する。
「……面を上げよ、又左。見ての通り、余は今、ここを立ち去る所作であった」
(訳:とりあえず俺はこれから夜逃げするから、お前も無駄死にしないでさっさと逃げた方がいいよ。俺に巻き込まないでくれ、頼むから)
私の言葉を聞いた利家は、弾かれたように顔を上げた。
その双眸から、先程までの絶望の色は完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、狂信と言っても過言ではない、メラメラと燃え盛る異常な熱気であった。
「なんと……! まさか、この織田家最大の絶望的な状況下において!
敵の目を欺くためにあえて身なりを落とし、山野に伏して落ち武者狩りをかわしつつ、再起の機を窺うという深謀遠慮にござりまするか!」
「えっ」
「しかも、己の素性を徹底的に隠し、農民のごときみすぼらしい姿で敵の油断を誘い、兵站を乱すゲリラ戦……いや、恐るべき神算鬼謀!
なるほど……敗軍を散らし、敵に兵数を悟らせぬ策か! なんという軍略! さすがは信秀公の御血筋、信長公にも勝るとも劣らぬ慧眼にござる!!」
(待ってくれ。一言もそんな高度なことは言っていない。俺はただ、単純に、一刻も早くこの殺伐とした尾張から夜逃げしたいだけなんだ)
しかし、一度火のついた傾奇者の耳には、いかなる弁明も届くはずがなかった。
利家は、私が夜逃げの兵糧として大事に握りしめていた、布包みの糒をまじまじと見つめた。その瞳には、まるで崇高な神の宝具でも見るかのような光が宿っている。
「殿……それは?」
私はとっさに、パニックになりながらそれを差し出す以外の選択肢を思いつけなかった。
「あ、ああ、これか。……食うか?」
(訳:これやるから落ち着いてくれ。頼むからこれ以上話を大きくしないで、その糒を食ってどこかへ行ってくれ)
「おお、おおお……っ!!」
利家は両手で、震えながら大切そうに糒の包みを受け取ると、押し戴くようにして滝のような涙を流した。
「初陣の褒美として、この浪人あがりの又左に、貴重な兵糧を下さると申されるか!
殿の海より深き御慈悲、この五体に染み渡り申した! 今川の先鋒隊ごとき、この又左衛門が一人残らず血祭りに上げて御覧にいれまする!」
「いや、一人残らずって、相手は何人――」
「者共ォォッ!!」
突如、利家は己の背後に向かって、地響きのような咆哮を上げた。
いつの間に集まっていたのか、廃屋の外には、主君を失い絶望に暮れていたはずの織田の敗残兵たちが、数十人も集まっていた。彼らは利家の放つ異常な熱気に気圧され、目をギラギラと輝かせている。
雨に濡れた彼らの顔には、まだ敗戦の絶望が色濃く残っているはずだった。それなのに、利家の一声で、まるで別の生き物のように目が輝き始めている。
「我らが新たな主君、織田九男・信照公はここにおわす! 敗北に怯える雑兵どもよ、主君の御前であるぞ! 今川の雑兵どもに、織田の意地を見せつけてやれぇぇっ!!」
『オオオオオオォォォォォッ!!』
凄まじい鬨の声が、豪雨の音を完全に塗り潰して天に響き渡った。
地面を踏み鳴らす無数の足音、獣のような雄叫び。拾い上げた朱槍を大車輪の如く振り回しながら、前田利家という名の嵐は、雨の煙る暗闇の中へと駆け出していった。それに続く敗残兵たちの群れ。
後には、静けさを取り戻したボロ屋と、空っぽになった己の手を見つめる私が、ただ一人取り残されていた。
「…………なんでこうなるの?」
私のささやかなつぶやきは、無情にも遠くで鳴り響く軍角の音にかき消されていった。
私はただ、歴史の波に飲み込まれず、安全な場所で静かに生き延びたかっただけなのだ。だが、桶狭間が狂った時点で既に崩れ去った歴史知識と、「信照」という名が、私を泥沼の戦国時代へと引きずり込んでいく。
斯くして、戦国史上最も胃腸の弱い君主と、最強の狂犬たちによる、望みもしない戦いの日々が幕を開けたのである。




