第十五話 泥沼を作れ
第十五話 泥沼を作れ
義元の真の狙いを知った以上、正面からの決戦は避けねばならない。軍議の後、拠点全体に緊張感が漂うようになっていた。四天王をはじめとする者たちは、今川軍という巨大な脅威に対して、いかにして立ち向かうべきか、それぞれの立場から思案を巡らせていた。
数日後、再び開かれた軍議の場で、利家が意気込んで口を開いた。
「殿。義元がこの尾張を諦めぬというのであれば、いっそ今のうちに、正面から一気に叩くべきではございませぬか。我らの兵も、日に日に増えております。今こそ、決戦の好機かと」
私はその提案に、内心で強い焦りを覚えた。(正面決戦とか、絶対にダメだ! みんな死んじゃう! 今川軍は四万もの大軍を擁していたんだぞ!)
私は思わず、素直な本音を口にしてしまった。
「……余計な戦はするな」
(訳:無駄に戦って死ぬのはやめてほしい。正面からぶつかったら、確実に負ける。それだけは絶対に避けたいんだ)
広間には、しばし沈黙が流れた。利家は少し不満そうな顔をしたが、他の三人――藤吉郎、一益、小六は、それぞれ深く頷いていた。
一益が静かに口を開いた。「殿の仰る通りかと存じます。今川軍は依然として大軍。正面から挑めば、勝敗はどうあれ、多くの兵を失うことになりましょう」
「では、いかにして戦うべきか」林秀貞が問うた。
私は必死に頭を働かせた。(そうだ……戦国時代の兵站の重要性については、それなりに勉強したはずだ。今川軍だって、補給がなければ長くは戦えないはず)
「補給を、断つんだ」私は続けた。「正面から兵をぶつけるんじゃなくて、義元軍の兵站――兵糧や物資の流れを、じわじわと締め上げていく。そうすれば、向こうは戦わずして疲弊していくはずだ」
(訳:これなら、みんなが命を張って戦わなくても済むはずだ)
四天王はこの言葉を、それぞれの解釈で受け止めていった。一益が最初に口を開いた。「承知いたしました。今川軍の補給線、必ずや突き止めて御覧に入れましょう」
小六も頷いた。「川筋を封じれば、船による輸送は不可能となりましょう」
藤吉郎もまた、静かに言葉を続けた。「商人たちを通じて、今川方への物資の流れを絶つよう手配いたしましょう」
以後、四天王が一丸となって、補給線攻撃を主軸とした持久戦略を展開していくことになった。一益が情報を集め、今川軍の兵站基地の位置と、輸送のための隊列の動きを詳細に把握する。小六が水路を封鎖し、船による物資輸送を妨害する。藤吉郎が商人たちのネットワークを通じて、今川方への物資供給を巧みに遮断していく。
利家だけは、正面から戦うことを望んでいたが、他の三人に抑えられた。「利家、殿の御下命は明確じゃ。兵を損なわぬ戦こそ、我らが目指すべき道」一益がそう諭すと、利家は不満げながらも頷いた。
「殿が仰るならば、致し方なし。だが、いざという時には、この利家、槍を振るう覚悟はできておりますぞ」
私はその言葉に、複雑な思いを抱いた。(利家の武勇に頼らなきゃいけない場面が来ないことを、心から祈るよ……)
作戦は徐々に効果を見せ始めた。今川軍の兵站基地は、次々と小規模な襲撃を受け、輸送隊は幾度となく足止めを食らった。川筋を伝う物資輸送は、小六率いる川並衆によって、ことごとく妨害された。商人たちも、藤吉郎の巧みな交渉によって、次第に今川方への協力を渋るようになっていった。
今川軍は、いつまで経っても決定的な勝利を得られないまま、兵糧と時間だけを浪費していった。今川軍の陣中では、次第に不満と焦りの声が上がり始めていた。
「兵糧が思うように届かぬ。このままでは、長期の駐留は難しい」ある部隊長が、上役に訴えた。
「尾張は、まるで底なしの泥沼だ……」義元付きの重臣がそう漏らしたという噂が、後に一益の情報網を通じて拠点にも伝わってきた。
私はその報告を聞いて、心の底から安堵した。「よかった、これで大きな戦にはならなそうだ」
(訳:誰も死なずに、義元が『尾張なんて割に合わない』って諦めてくれたら、それが一番いいんだ)
その安堵の表情すら、家臣たちには「戦局を完全に掌握した者の余裕」として映るのだった。一益は満足げに頷いた。「殿は、初めからこの結末を見通しておられたのですな。血を流さず、敵を疲弊させる――まさに理想の戦にございます」
小六もまた、深く感じ入った様子であった。「わしのような者の技も、こうして正しく生かされるのだと、改めて実感いたしました」
藤吉郎は、商人たちとの交渉の成果を誇らしげに報告した。「殿の御威光あればこそ、商人たちも我らに協力してくれるのでございます」
私はその一つ一つの言葉に、内心で複雑な思いを抱きながらも、表向きは重々しく頷くしかなかった。(俺はただ、みんなに死んでほしくなかっただけなんだけどな……)
その夜、拠点は久しぶりの静けさに包まれていた。戦火が直接及ぶことなく、それでいて確実に今川軍を追い詰めているという事実に、拠点全体が確かな手応えを感じ始めていた。
私は縁側に座り、夜空を見上げながら、静かに呟いた。「このまま、誰も傷つかずに済めばいいんだけどな……」
その願いは、この時の私にとって、何よりも切実な本音であった。しかし、その素朴な願いが、今川軍にとってどれほどの脅威として映っていたのかを、私はまだ十分に理解していなかったのである。
拠点の外――今川軍の陣中では、この「底なしの泥沼」という状況が、後にさらなる混乱と恐怖を生み出す種となっていくことになる。だが、それはまだ、先の話であった。




