第十二話 最初の伝説
第十二話 最初の伝説
お市救出の報せは、瞬く間に旧織田家臣団の間に広まった。散り散りになっていた旧臣たちの間で、密かに囁かれていた噂が、確かな事実として輪郭を帯び始めたのである。
「織田直系、最後の男子。その御方が、お市様を救われたそうだ」
「信秀公の九男、信照様と申せば……確か、母君の身分が低く、家督とは無縁であった御方ではなかったか」
「されど、桶狭間にて信長公が討ち死にし、有力な一族もほとんど残っておらぬ今、織田の血を確かに引く者と申せば、その信照様をおいて他にはあるまい」
そんな会話が、尾張の各所で交わされるようになっていた。かつて信長のもとで仕えていた旧臣たちの多くは、桶狭間の敗戦以来、行き場を失い、身を潜めて暮らしていた。彼らにとって、「織田の血を引く者が、確かに生きている」という報せは、まさに希望の光であった。
離散していた旧臣たちが、次々と拠点へ参じるようになった。ある者は徒歩で、ある者はわずかな供回りを引き連れて、皆それぞれの想いを抱えながら、拠点の門をくぐった。彼らは口々に言う。
「信照様こそ、まことの織田の後継者にございます」
「我らも、どうか御家来に加えていただきたく」
拠点は日を追うごとに、その規模を拡大させていった。私はその様子を、ただただ困惑しながら眺めるしかなかった。(俺、何もしてないんだけどな……。お市を助けたのだって、俺じゃなくて利家たちなのに)
ある日、拠点を訪れた一人の老臣が、私の前で深々と平伏した。彼はかつて信秀の代から仕えていたという、由緒ある家柄の武士であった。
「信照様。それがし、亡き信秀公の代より織田家にお仕えして参りました、林秀貞と申す者にございます」
私はその名に、微かな記憶の疼きを感じた。(林秀貞……確か、後に信長から追放される、あの重臣か)
「此度、お市様をお救いになられたと伺い、矢も盾もたまらず参上いたしました。信照様こそ、この乱世に織田の名を再興させるべき、唯一の御方と存じ上げまする」
私は内心で激しく動揺していた。(いやいやいや、俺そんな器じゃないから! ただ逃げたいだけの、ただの歴史オタクなんだから!)
しかし、私の口から出た言葉は、それとはまったく違うものであった。「……そなたの忠義、確かに受け取った。これからも、力を貸してくれ」
(訳:断る勇気なんてない。とりあえず、その場を収める言葉を絞り出すしかなかった)
林秀貞は感激した様子で、何度も頭を下げた。「有り難き幸せにございます!」
その様子を見ていた利家が、私にそっと耳打ちした。「殿、林殿のような由緒正しき御方まで従えられるとは、まさに天の采配にございますな」
「そ、そうか……」
私はもはや、自分がどこへ向かっているのか、まったく分からなくなっていた。ただ流されるように、周囲の期待と忠誠に応え続けるしかない自分がいた。
数日後、拠点の広場に、これまでにない規模の人だかりができていた。集まった旧臣、浪人、そして拠点に身を寄せる者たちが、一斉に私の姿を見つめている。その中心で、利家が声高らかに宣言した。
「聞くがよい! 我らが主君、織田信照様は、絶望の淵にあった尾張の地にあって、なお織田の血を絶やすことなく、お市様をお救いになられた! これぞ、織田家再興の第一歩にあらずして、何であろうか!」
『オオオオオッ!』
広場に歓声が轟いた。私はその中心で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
(俺は、何もしていない。ただ、震えながら「助けてくれ」と頼んだだけだ。それなのに、なんで俺がこんな風に讃えられているんだ……)
しかし、その困惑した表情すらも、集まった人々の目には「己の功を誇らぬ、慎み深き名君の姿」として映っているようだった。誰かが、感嘆の声とともに呟いた。
「これぞ、魔王最初の神算鬼謀――」
その言葉が、まるで風に乗った種子のように、瞬く間に尾張中へ広まっていった。「魔王最初の神算鬼謀」――お市救出という出来事が、こうして一つの「伝説」として語られ始めたのである。
私はその日の夜、寝所で一人、静かに考え込んでいた。(このまま、俺は本当に「魔王」なんてものになっていくのか。俺が望んでいるのは、ただ静かに、みんなと平和に暮らすことだけなのに……)
不安は尽きなかった。しかし同時に、拠点に集う人々の顔に浮かぶ、確かな希望の色を見るたびに、私の中に、言葉にしがたい複雑な感情が芽生えてもいた。誰かを助けたいという想い、誰かの期待に応えたいという想い――それらは、決して私の本心から遠いものではなかったのかもしれない。
(でも、それでも……戦は嫌だ。血を見るのは嫌だ。俺はただ、みんなが生きて、笑って暮らせる場所を守りたいだけなんだ)
その想いだけは、この時の私の中で、確かな核として存在していた。だが、その素朴な願いが、この先どのような形で「天下取り」という壮大な物語へと変貌していくのか、この時の私は、まだ何一つ想像もしていなかったのである。
私の与り知らぬところで、伝説の第一歩が、こうして確かに刻まれていった。拠点の外――尾張の各地では、すでに「信照」という名が、単なる庶子の名ではなく、希望の象徴として語られ始めていたのである。




