第十一話 兄上
第十一話 兄上
利家たちの奇襲は成功した。今川軍の包囲は崩れ、お市の一行は間一髪のところで救出された。その夜のうちに、彼女は拠点近くの小さな庵へと移され、供の者たちに手厚く看護されていた。
私はといえば、対面の刻限が近づくにつれ、これまでにないほどの緊張に苛まれていた。朝早くから何度も着物を整え直し、鏡代わりの水面を覗き込んでは、自分の身なりを確認する。そんな私を見て、利家は不思議そうに首を傾げた。
「殿、いかがなされました。いつになく落ち着きがございませぬな」
「い、いや、何でもない」
(訳:緊張してるなんて、絶対に言えるわけがない。だって俺、こんな時代小説みたいな世界に来て、初めて『妹』に会うんだぞ……!)
私の胸中は、まさに複雑を極めていた。歴史オタクとしての知識が、否応なくお市の方という存在の重みを私に思い知らせていたのだ。信長の妹、絶世の美女、そして幾多の悲劇を背負うことになる女性――そんな彼女と、この歴史が捻じ曲がった世界で対面するというのだから。
昼過ぎ、私はついに、避難先の小さな庵でお市と対面した。庵の中は簡素ながらも清潔に整えられており、お市は静かに座して私を待っていた。
齢十三ほど、まだあどけなさの残る顔立ちながら、気品を湛えたその姿は、まさに歴史書の挿絵から抜け出てきたかのようであった。艶やかな黒髪、涼やかな瞳、そしてどこか儚げな佇まい。窮地を切り抜けたばかりだというのに、その所作には一切の乱れがなかった。
(本物だ……。本物のお市の方が、目の前にいる……!)
私は内心の動揺を必死に抑えながら、ゆっくりと部屋の中へと歩を進めた。お市は私の姿を認めると、静かに、しかし確かな眼差しでこちらを見つめた。しばし、二人の間に沈黙が流れる。
お市は私をじっと見つめると、小さく頭を下げた。「……兄上、でございますね」
その一言に、私の胸の内は言葉にならない感動で満たされた。全身の血が沸き立つような、これまで感じたことのない高揚感が私を包み込んだ。
(お、俺が兄上だ……! 歴史上の美少女にお兄ちゃんと呼ばれてる……! これだけで転生してきた甲斐があった……! いや待て、落ち着け、変な顔をしていないか俺は……!)
顔には出すまいと、私は努めて重々しく頷いた。声が上ずらないよう、腹の底から絞り出すように。
「うむ。よくぞ無事であった」
お市は少し目を伏せると、静かに続けた。「兄上には、大変なご心配をおかけいたしました。この身一つを救うために、多くの兵を動かしていただいたと伺っております」
「い、いや。当然のことだ。お前は、余の……」
私は言葉に詰まった。「妹だから」と言おうとしたが、その言葉があまりにもぎこちなく感じられて、うまく口から出てこなかったのだ。
(家族なんだから当然だろ、って言いたいだけなのに、なんでこんなに緊張してるんだ俺は……)
お市はそんな私の様子を、じっと見つめていた。その瞳の奥に、微かな戸惑いと――それ以上の何かが揺れているようにも見えたが、私はその機微に気づく余裕もなかった。
「兄上は、本当にお変わりになりましたね」お市がふと、そう呟いた。
「え?」
「幼き頃、幾度かお目にかかったことがございました。あの頃の兄上は、いつも遠くからこちらを見ているだけの、寡黙な御方でございました。それが、今では多くの者を率い、この乱世にあってなお、人々に希望を与えておられる」
私は内心で焦った。(幼い頃の信照については、俺、何も知らないぞ……! どう答えればいいんだ)
「そ、それは……いろいろあってな」
私は曖昧に言葉を濁すしかなかった。だが、お市はそれ以上追及することなく、ただ静かに微笑んだ。
「兄上が、今も生きておられて、本当に良かった」
その言葉には、心からの安堵と、そして――それ以上の、まだ言葉にならない何かが込められているように感じられた。私はその微笑みに、思わず見惚れてしまいそうになる自分を、必死に押し留めた。
(いや、こんな時代小説の中で、妹に見惚れるとかありえないだろ俺! しっかりしろ!)
その様子を、部屋の外からそっと見守っていた利家が、感極まった声で呟いた。
「殿とお市様――なんという深き絆でありましょうや」
私はただ、内心のニヤけを必死に隠していただけであった。しかし、そのぎこちない態度すらも、周囲の目には「兄妹の深い情愛」として映っていたのである。
対面が終わり、庵を後にした私は、しばらく一人になれる場所を求めて歩き続けた。拠点の外れ、人気のない木立の中で、私はようやく息をついた。
(すごい体験をした……。歴史上の人物と、家族として対面するなんて。しかも、あんなに綺麗な子だとは思わなかった……いや、そういう目で見ちゃダメだろ、妹なんだから!)
私は自分の内心の乱れを、必死に整理しようとしていた。しかし、どれだけ理性で押さえ込もうとしても、あの微笑みの残像が、なかなか頭から離れなかった。
その夜、私は寝所で天井を見上げながら、この日一日の出来事を反芻していた。(これから、あの子とどう接していけばいいんだろう。兄として、しっかり守ってあげたい。それだけは、絶対に間違いない)
私の胸に芽生えたその想いは、確かに純粋な、兄としての情愛であった。だが、周囲の人々がそれをどう受け止め、どのような物語として紡いでいくのかを、この時の私は、まだ何一つ知らなかったのである。
窓の外では、月明かりが静かに拠点を照らしていた。遠くの庵からは、お市の穏やかな寝息が聞こえてくるような、そんな気がした。私はその夜、久しぶりに、優しい気持ちのまま眠りについたのだった。




