第十話 妹の危機
第十話 妹の危機
拠点での日々が続く中、一益がもたらす情報網は日を追うごとに広範なものとなっていった。近隣の村々の様子、今川軍の動向、そして――旧織田家に縁のある者たちの消息までもが、少しずつ拠点に集まってくるようになっていた。
その日、一益は珍しく息を切らせながら拠点に駆け込んできた。普段は決して感情を表に出さない男が、明らかに焦燥の色を滲ませている。
「殿! 火急の報にございます!」
私は縁側で寛いでいたところを、その只ならぬ様子に飛び起きた。「ど、どうした」
「お市様の一行が、今川軍に包囲されている――そのような報せが入りましてございます」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず立ち上がった。歴史オタクとしての記憶が瞬時に警鐘を鳴らす。
(お市! 信長の妹、後の浅井長政の妻になる、あのお市の方か! 史実が狂っているこの世界で、彼女の身に何が起きてもおかしくない……!)
私の脳裏には、大学時代に読み漁った戦国史の資料が次々と蘇っていた。お市の方――絶世の美女と謳われ、後に浅井長政に嫁ぎ、さらには柴田勝家の妻となり、最期は壮絶な死を遂げたとされる、悲劇の姫。だが、この世界ではすでに桶狭間の結果からして史実と異なっている。彼女の運命がどう転ぶかなど、もはや誰にも予測がつかない。
「一益、詳しく話してくれ」私は震える声で促した。
一益は淡々と、しかし要点を的確に伝えた。「お市様は、信長様討ち死にの報を受け、わずかな供回りと共に、安全な地を求めて落ち延びておられたとのこと。しかし、今川方の追手に発見され、現在、尾張と美濃の境にある小さな砦に追い詰められておるようにございます」
「砦の様子は?」
「兵の数はわずか十数名。対して、今川方は五十を超える兵で包囲しておるとのこと。このままでは、遠からず陥落は免れませぬ」
私の全身から血の気が引いた。(十三歳の女の子が、そんな危険な目に……! 史実じゃお市はもっと後まで生きているはずなのに、この世界じゃ何が起きてもおかしくないんだ)
「利家! 一益! お市様を、必ず救い出してくれ!」
私は思わず、これまでにないほど強い口調でそう叫んでいた。声が震え、拳を強く握りしめていた。
(訳:本当に危ないから、お願いだから助けてあげてほしい。俺には何もできないけど、せめて彼女だけは……!)
私の必死な形相を見て、利家たちは息を呑んだ。これまで「好きにせよ」「余は寝る」と、常に飄々とした態度を崩さなかった私が、これほどまでに感情を露わにするのを見るのは、初めてのことだったのである。
「殿がこれほどまでに動じられるとは……。よほど深いお考えがあってのことに違いない」利家は震える声でそう呟いた。
「お市様は、織田家にとってまさに最後の光。その御方をお救いすることこそが、我らが織田を再興する第一歩となりましょう」一益もまた、深く頷いた。
四人はただちに出立の支度を整えた。利家は槍を取り、一益は情報を整理し、藤吉郎は道中の兵糧を用意し、小六は逃走経路の確保に取り掛かった。それぞれが素早く、しかし確実に自らの役目を果たしていく。
私は自分の身の安全を優先し、拠点に残ることを選んだ――というより、戦場に立てるほどの度胸がなかっただけである。武術の心得もなく、この体すら、まだ十分に使いこなせているとは言い難い。もし戦場に赴けば、足手まといになるどころか、命を落とすのは目に見えていた。
「殿はここでお待ちくだされ。我らが必ず、お市様をお救いいたしまする」利家がそう言い残し、兵たちを率いて出立していった。
私はただ、無事を祈りながら拠点で震えていることしかできなかった。夜が更けても眠ることができず、私は縁側に座り込み、闇の向こうに広がる山々をじっと見つめていた。
(頼む、無事でいてくれ。俺のせいで、誰かが死ぬなんて、そんなことは絶対に嫌だ)
その夜、私は初めて、この世界で「守りたいもの」の輪郭が、少しずつはっきりと形を成していくのを感じていた。単に自分の命を守りたい、平穏に暮らしたいという願いだけではない。血の繋がった、まだ会ったこともない妹の存在が、私の中に確かな重みをもって刻まれ始めていたのである。
夜明け前、遠くから馬蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。私は飛び起き、拠点の門へと駆け寄った。松明の灯りに照らされて、無事に戻ってきた利家たちの姿が見えた。
「殿! お市様、無事にお救いいたしましてございます!」
利家の後ろには、供の者たちに守られた、小さな輿の姿があった。私は胸を撫で下ろすと同時に、体中の力が抜けていくのを感じた。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪える。
「よかった……。本当に、よかった……」
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を失っていた。輿の中から、微かに人の気配が感じられた。まだ幼さの残る、しかし気品を湛えた息遣いが、夜の静寂の中に確かに存在していた。
「殿、お市様は今夜はお疲れゆえ、別室にてお休みいただきましょう」一益がそう提案し、私も静かに頷いた。「ああ、そうしてくれ。ゆっくり休んでもらって……」
(訳:本当に、無事でよかった。明日、ちゃんと会って、無事を確かめたい)
その夜、私は久しぶりに、心の底から安堵した気持ちで眠りについた。だが同時に、明日、初めて対面することになるであろう妹――お市への、言い知れぬ緊張と期待もまた、胸の奥に確かに芽生え始めていたのである。
翌朝の対面が、私にとってどれほど大きな意味を持つことになるか、この時の私は、まだ知る由もなかった。




