第百九話 敵なき戦
第百九話 敵なき戦
遠江の豪族からの、保護圏加入という、これまでにない大胆な決断を経て、拠点周辺には、これまで以上に、緊迫した空気が、流れることとなった。しかし、その緊張とは裏腹に、実際の軍事的な衝突は、意外にも、これまで以上に、少なくなっていったのである。
ある日、今川方の一部隊が、拠点周辺への、進軍を試みるという情報が、一益を通じて、拠点にもたらされた。「殿、今川方の部隊が、こちらへ向けて、進軍を開始しております」
私は、その報せに、緊張を覚えた。「規模は、どれくらいなんだ?」
一益は、慎重に答えた。「それなりの規模にございます。されど、殿。この部隊、これまでとは、少し、異なる様相を、呈しております」
「異なる様相……?」私は、その言葉に、興味を惹かれた。
一益は、続けた。「進軍の速度が、これまでに比べ、明らかに、緩やかにございます。まるで、実際の攻撃を、それほど、望んでいないかのような、そんな動きにございます」
私は、その説明に、深く考え込んだ。「そうか……。今川方も、これ以上、無駄な犠牲を、出したくないのかもしれないな」
数日後、この今川方の部隊は、拠点周辺の、比較的、開けた土地に、姿を現すこととなった。しかし、その部隊は、実際の攻撃を仕掛けることなく、しばらくの間、その場に、留まり続けたのである。
「これは、いったい、どういうつもりなんだ」利家が、少し苛立たしげに、そう呟いた。
一益は、慎重に分析した。「恐らく、これは、実際の戦闘を目的とした、進軍ではないものと、推察いたします。むしろ、我らの反応を、慎重に、確認しようとしているのやもしれませぬ」
私は、その分析に、深く頷いた。「それなら、俺たちも、無用な挑発は、絶対に避けなきゃな」
私は、四天王に、これまで以上に、慎重な対応を、求めることとした。「みんな、この部隊に対しては、決して、こちらから、攻撃を仕掛けないでほしい。ただ、もし、村や住民に、危害が及びそうになったら、その時は、迷わず、動いてほしい」
(訳:本当に、無駄な争いは、絶対に、避けたいんだ。でも、みんなの安全は、絶対に、守らなきゃいけないから)
四天王は、その方針に、深く頷いた。数日間、両陣営は、互いに、直接的な衝突を避けたまま、静かな睨み合いを、続けることとなった。この間、拠点周辺の村々は、これまでの経験を踏まえ、慎重に、しかし、迅速に、避難の準備を、整えていった。
しかし、結局のところ、今川方の部隊は、決定的な攻撃を、仕掛けることなく、静かに、撤退していくこととなった。この一連の顛末は、拠点にとって、これまでにない、確かに、新しい種類の「勝利」として、記録されることとなったのである。
「殿、今川方の部隊、結局、一戦も交えることなく、撤退していきましてございます」一益が、その顛末を、私に報告した。
私は、その報告に、深い安堵を覚えた。「そうか……。本当に、誰も傷つかずに済んだんだな」
(訳:これが、俺にとって、一番、望んでいる形の結末なんだ)
一益は、静かに続けた。「殿。これは、まさに、殿がこれまで築いてこられた、確かな抑止力の、証にございます。今川方も、もはや、いたずらに、無用な犠牲を、払うことを、望んではいないのでございましょう」
私は、その説明に、深く頷きながらも、複雑な感慨を抱いていた。「そうか……。義元さんたちも、きっと、これ以上の消耗戦を、望んでいないんだろうな」
その日の夕刻、私は、四天王を集め、この「敵なき戦」について、改めて話し合う機会を持った。「みんな、こうやって、実際に、戦わずに済むことが、これから、もっと、増えていったらいいよな」私は、率直な想いを口にした。
藤吉郎が、深く頷いた。「殿。まさに、その通りにございます。これこそが、殿がこれまで、一貫して、目指してこられた、確かな理想の形にございましょう」
私は、その言葉に、少し照れくささを覚えながらも、深い充実感を抱いていた。(俺は、これからも、みんなを守ることだけを、大事にしていきたい。そして、いつか、本当に、争いのない、平和な日々が、続いてくれたらいいな)
その夜、私は寝所で一人、この日の出来事を、静かに振り返っていた。その素朴な願いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。「敵なき戦」――この、戦わずして敵の攻勢を、未然に防ぐという現象は、以後、保護圏の、確かな平和の、確かな象徴として、その意義を、さらに、深めていくこととなるのである。




