第百四話 沈黙の再来
第百四話 沈黙の再来
「幻影の織田軍」という評判が、今川方の陣中で、さらに、その神話的な重みを増していく中、拠点には、これまでと同様に、重大な意思決定が求められる場面が、依然として、続いていた。ある日、これまで以上に、慎重な判断が必要な案件についての、緊急の会議が、開かれることとなった。
三好政権が、東海の均衡状態を、静かに見守っているという情報を受け、拠点は、これまでとは異なる、より複雑な、政治的な立ち回りを、求められるようになりつつあったのである。
「殿。京の三好政権への、正式な使者を、送るべきかどうか――これは、慎重に、検討すべき事柄かと存じます」林秀貞をはじめとする、旧臣たちが、そう提案した。
私は、その提案に、これまでにない、深い緊張を覚えた。(京への使者……。それって、正式に、俺たちが、政治的な立場を、明確にするってことじゃないか)
会議は、この重要な案件をめぐり、次第に、活発な議論を、展開していくこととなった。ある者は、積極的な外交を、主張し、また別の者は、これまで通り、慎重な距離を保つべきだと、提案した。
私は、その議論を聞きながら、次第に、精神的な限界を感じ始めていた。(みんなの言うことは、それぞれ、もっともに聞こえる。でも、俺には、この、複雑な政治的な判断を、下す自信なんて、正直、全然ないんだ……)
議論が長時間に及ぶ中、私は、これまでにないほどの、深い疲労を感じていた。頭が重く、思考がまとまらない。責任の重さが、これまで以上に、私の心を、圧迫していた。
(もう、限界だ……。これ以上、この重圧に、耐えられない)
会議の途中、私は、ついに、その場で、意識が朦朧とするのを感じた。誰かが、私の名を呼ぶ声が、遠くから聞こえてくるような気がした。しかし、私は、その声に応える気力すら、もはや残っていなかった。私は、その場で、静かに、深い眠りへと落ちていったのである。
会議の場は、突然の私の様子に、しかし、これまでの経験から、もはや、大きな動揺を見せることはなかった。四天王たちは、すぐに、いつもの解釈へと、切り替えていった。
「殿は、この重大な局面において、あえて、深い熟考に入られたのだ」一益が、落ち着いた声で告げた。「我らは、殿の御下知を待つのではなく、これまでの殿の御方針を胸に、自らの判断で、事に当たらねばなるまい」
こうして、私が意識を失っている間、四天王を中心とした会議は、私の与り知らぬところで、着々と進められていった。彼らは、これまでの拠点の方針――力による支配ではなく、慈しみによる庇護、そして、決して、いたずらに、天下を望む姿勢を示さないという、これまでの一貫した方針を、改めて確認し、京への対応についての、慎重な方針を、練り上げていったのである。
一方、拠点周辺では、この日、今川方の一部隊が、拠点近くの村へ、接近する動きを見せていた。しかし、拠点が、まさに、この重要な会議で、深い「沈黙」に包まれているという事実が、皮肉にも、今川方に、確かな警戒心を、抱かせることとなったのである。
「織田信照方が、再び、あの深い沈黙に入っておる」今川方の物見が、そう報告した。「これは、また、何か、大きな策を、練っているのやもしれぬ」
今川方は、この報告を受け、進軍を、慎重に、控えることとなった。結果として、拠点が、実際には、何の対応も取っていないにもかかわらず、この「魔王の沈黙」は、またしても、確かな抑止力として、機能することとなったのである。
数時間後、私は、ようやく意識を取り戻した。目を開けると、拠点の一室に、静かに横たわっている自分に気づいた。傍らには、心配そうな表情を浮かべた、お市の姿があった。
「兄上……。お目覚めになられたのですね」お市が、安堵の声を漏らした。
私は、ぼんやりとした頭で、身を起こした。「会議は、どうなったんだ?」
利家が、その場に現れ、誇らしげに報告した。「殿、御安心くだされ。殿の御沈黙の間、我らは、これまでの殿の御方針に従い、京への対応についても、慎重な方針を、しっかりと取りまとめましてございます。加えて、殿の御沈黙は、今川方の進軍をも、未然に、防ぐこととなりました」
私は、その報告に、複雑な思いを抱いた。(俺が倒れている間に、みんなが、ちゃんと物事を進めてくれていたのか……。しかも、それが、今川方の動きまで、止めることになったなんて)
その夜、私は寝所で一人、この日の出来事を、静かに振り返っていた。(俺一人が、すべてを決めなくても、みんなが、ちゃんと考えて、道を切り開いてくれる。それって、本当に、ありがたいことなんだよな)
その素朴な感慨を胸に、私は、静かに、再び眠りへと落ちていったのだった。「沈黙の再来」――この、私の精神的な限界から生まれる、確かな「休息」は、こうして、拠点にとって、これからも、確かな、そして、皮肉な意味を持つ、重要な要素として、その役割を、果たし続けていくこととなるのである。




