第百三話 幻影の織田軍
第百三話 幻影の織田軍
「兵なき軍議」という、独特の仕組みが、着実に機能する中、今川方の陣中では、依然として、拠点の実態把握に、深刻な困難を、抱え続けていた。この頃、今川方の軍監は、これまでの、あらゆる調査結果を、改めて、総合的に分析しようと試みていたのである。
軍監は、これまで集めてきた、膨大な報告書の山を前に、深いため息をついていた。「これまで、幾度となく、信照方の実態を、把握しようと試みてきたが、いずれも、決定的な結論を、得られずにおる」
軍監は、配下の物見たちを、改めて集め、これまでの調査の総括を、求めることとした。「これまでの、あらゆる調査を通じて、信照方の、真の兵力は、いかほどと、推察されるか」
物見の一人が、慎重に答えた。「殿。正直なところ、それは、時と場合によって、まったく異なるように思われます。ある時は、数百程度。またある時は、数千を超える規模とも」
軍監は、深く考え込んだ。「これは、単なる、実態を隠すための、意図的な欺瞞なのか、それとも……」
別の物見が、続けた。「それがしの見立てでは、これは、決して、意図的な欺瞞ではないように、思われます。むしろ、信照方には、そもそも、明確な『常備軍』という概念そのものが、存在しないのでございましょう」
軍監は、その分析に、深く頷いた。「常備軍が、存在しない、か……。それでいて、あれほどの、確かな軍事力を、状況に応じて、動員できるとは、まことに、不可解な話だ」
軍監は、これまでの、あらゆる情報を統合し、義元本隊への、これまでで、最も、総合的な報告書を、まとめることとなった。「織田信照方、その軍事力は、常に、流動的にございます。固定された常備軍を持たず、必要に応じて、保護圏内の各地から、自発的に兵が集結する、まったく新しい形の軍事体制を、確立しております。この体制ゆえに、我が方が、いかに詳細な調査を重ねようとも、その真の実力を、正確に把握することは、極めて困難と、断ぜざるを得ませぬ」
この報告書は、義元本隊において、これまで以上に、深刻な議論を、呼び起こすこととなった。ある重臣は、こう漏らしたという。「実体を掴めぬ敵ほど、恐ろしいものはない。もはや、我らは、幻を相手に、戦い続けているかのようだ」
拠点においては、私は、こうした今川方の、深刻な分析など、まったく知る由もなく、日々の平穏な暮らしを、続けていた。ある日、一益が、この今川方の状況についての、詳細な報告を、私にもたらした。
「殿、今川方は、依然として、我らの実態を、正確に把握できずにいるようにございます」
私は、その報告に、少し苦笑した。「まあ、そうだろうな。俺たち自身、正直、その時々で、兵の数なんて、全然、把握してないんだから」
(訳:本当に、みんなが、必要な時に、必要な分だけ、自然に集まってくれているだけなんだから)
一益は、深く頷いた。「これこそが、我らの、最大の強みにございましょう。固定された軍事力を持たぬということは、それだけ、我らが、いかなる敵にとっても、予測不可能な、確かな脅威として、映っておるのでございます」
私は、その説明に、複雑な思いを抱きながらも、少し安堵した。「そうか……。まあ、俺たちが意図的に、そうしているわけじゃないんだけどな。でも、それが、結果的に、みんなを守ることに繋がっているなら、それでいいのかもしれないな」
その日の夕刻、私は、四天王を集め、この今川方の困惑について、改めて話し合う機会を持った。「みんな、今川方が、俺たちのことを、こんなに把握できずにいるって、正直、俺には、まだ、不思議な感じがするんだ」私は、率直な感想を口にした。
藤吉郎が、丁寧に答えた。「殿。これは、まさに、保護圏という仕組みそのものの、確かな成果にございます。誰か一人が、すべてを統制するのではなく、各地の村や豪族が、それぞれの自主性をもって、支え合っている――この在り方そのものが、従来の戦の常識には、当てはまらないのでございます」
私は、その説明に、深く頷いた。「そうか……。俺たちのこの、緩やかで、でも確かな繋がりが、結局、一番の強さになっているんだな」
その夜、私は寝所で一人、この一連の状況について、静かに考えを巡らせていた。(幻影の織田軍――そう呼ばれる、俺たちのこの、不思議な力の在り方が、これからも、みんなを、確かに守り続けてくれたらいいな)
その素朴な願いを胸に、私は、静かに眠りについたのだった。今川方の軍監は、この日以降も、決定的な対策を見出せぬまま、この、実体を掴めぬ「幻影の織田軍」との、静かな消耗戦を、さらに、続けていくこととなるのである。




