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第六章 潮返しの夜

 石段を駆け上がる途中で、何度も足がもつれた。


 汗が目に入る。

 肺が熱い。

 手に抱えたノートが、胸に強く当たる。


 それでも止まれなかった。


 リセが、俺の名前を思い出せない。


 澄香の電話の声が、頭の中で何度も繰り返される。


 昨日まで、リセは俺のことを相良さんと呼んでいた。

 アイスをくれた人。

 変なことを書き残す人。

 忘れた自分を覚えていてくれる人。


 その呼び方が、もう彼女の中から消えかけている。


 石段を上りきると、潮見神社の境内が朝の光に沈んでいた。


 いつもなら蝉の声がうるさいくらいに響いている時間なのに、その日は妙に静かだった。

 風も弱く、提灯だけがじっと吊るされている。


 拝殿の奥から、澄香が出てきた。


 顔色が悪い。


「相良さん」


「リセは」


「部屋にいます」


 澄香は俺の抱えたノートを見る。


「それは」


「昨日のことを書いたものです」


「……ありがとうございます」


 礼を言う声が、ひどく弱かった。


 俺は靴を脱ぎ、拝殿の奥へ上がった。


 リセは昨日と同じ部屋にいた。


 布団の上に上体を起こし、窓の外を見ている。


 白い寝間着。

 少し乱れた髪。

 熱のせいか、頬が赤い。


 けれど、俺が入っていくと、彼女はいつものように笑った。


「あ」


 その声は明るかった。


 でも、続く言葉が出てこない。


 リセは俺を見つめたまま、困ったように首をかしげた。


「えっと」


 俺は立ち止まった。


 胸の奥が、嫌な音を立てて沈む。


「おはよう」


 どうにか、それだけ言った。


「おはようございます」


 リセは丁寧に頭を下げた。


 まるで、初めて会った人にするみたいに。


「その……すみません」


「何が」


「わたし、あなたのことを知ってる気がするんです」


「ああ」


「でも、名前が出てこなくて」


 リセは笑った。


 笑おうとしていた。


「たぶん、机の下に落ちた消しゴムみたいに、どこかに隠れてるだけです」


 昨日、ナツメの名前が出てこなかった時と同じ言い方だった。


 俺はノートを抱えた手に力を込めた。


「相良透」


「さがら、とおる」


 リセはゆっくり繰り返した。


「はい。相良さん」


 名前を口にすると、少しだけ安心したように笑った。


 だが、その笑顔が余計に痛かった。


 呼び方だけが戻っても、そこに積み重なっていた時間はまだ曖昧なのだ。


「昨日のこと、覚えてるか」


「昨日」


 リセは視線を上に向けて考える。


「商店街に行きました」


「ああ」


「アイスを食べました」


「食べた」


「お母さんが笑いました」


 そこは覚えていた。


 俺は少しだけ息を吐く。


「あと、海に行きたいと言いました」


 リセは自分の胸に手を当てた。


「それは、覚えてます」


「そうか」


「というより、そこだけは残ってます」


 彼女は窓の外を見た。


 神社の木々の向こうに、海の青が少しだけ覗いている。


「どうして行きたいのかは、前よりぼんやりしています。でも、行きたいって気持ちはあります」


「母親と?」


「はい」


 リセは小さくうなずいた。


「お母さんと」


 澄香は部屋の入口で、黙って聞いていた。


 泣きそうな顔だった。

 けれど、泣かなかった。


「これ」


 俺はノートを開いた。


「昨日のことを書いてきた」


「本当に書いてくれたんですか」


「ああ」


「変なことも?」


「神様の定休日から、アイス泥棒未遂まで全部」


「大変です。わたしの品格が」


「最初からそんなにない」


「ひどい」


 リセは少しだけ笑った。


 俺はノートを読み始めた。


 昨日、商店街へ行ったこと。

 リセが世界は広いと言ったこと。

 写真館の前で、怒り方を忘れている気がすると言ったこと。

 ナツメが怒る練習をさせたこと。

 澄香が笑ったこと。

 リセがそれを記録に残してほしいと言ったこと。


 読んでいる間、リセは目を閉じていた。


 眠っているのかと思ったが、そうではなかった。


 時々、ほんの少しだけ笑う。

 時々、眉を寄せる。

 まるで、自分ではない誰かの話を聞いているみたいに。


 読み終えると、リセは静かに目を開けた。


「いいですね」


「何が」


「昨日のわたし、楽しそうです」


「実際、楽しそうだった」


「そうですか」


 リセは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、忘れても損してませんね」


「損してるだろ」


「そうですか?」


「覚えてた方がいいに決まってる」


 少し強く言いすぎた。


 リセは驚いた顔をした。


 俺は息を吐いた。


「悪い」


「いえ」


 リセは首を横に振った。


「相良さんは、忘れることを怒ってくれるんですね」


「怒る?」


「はい。みんな悲しんでくれます。心配してくれます。でも、相良さんは少し怒ってる気がします」


「そりゃ怒るだろ」


「誰にですか?」


 リセの問いに、俺は答えられなかった。


 誰に怒っているのか。


 潮返しに。

 町に。

 天宮家の役目に。

 何もできない自分に。


 たぶん、全部だった。


「お前が忘れるのは、お前のせいじゃない」


 俺は言った。


「だから、お前が損してないみたいに言うと腹が立つ」


 リセは少し驚いたように目を開いた。


 そして、ゆっくり笑った。


「そうですか」


「ああ」


「じゃあ、わたしの代わりに怒っておいてください」


「自分でも怒れ」


「練習中です」


 リセは冗談めかして言った。


 でも、その言葉の奥には、確かに昨日よりも少しだけ強いものがあった。


 澄香が部屋に入ってきた。


「リセ、少し休みなさい」


「はい」


「相良さんも、ありがとうございました」


 澄香は俺を見る。


 その目には、不安と迷いがまだ残っている。


 だが、以前のように俺を遠ざけようとする色は薄くなっていた。


「今日の夜、町内会の集まりがあります」


「潮返しのことですか」


「はい」


 澄香の表情が硬くなる。


「今年の儀をどうするか、話し合うそうです」


「話し合うって、あなたはやらないと言ったんじゃ」


「言いました」


 澄香は静かに答えた。


「でも、町の人たちは諦めていません」


 リセが母を見る。


「お母さん」


「あなたは休んでいなさい」


「わたしも行きます」


「だめ」


 即答だった。


 リセは少しだけ眉を寄せる。


「わたしのことなのに」


「だからこそです」


「でも」


「だめです」


 澄香の声が強くなる。


 だが、リセは今回はすぐに引かなかった。


「お母さん」


 その声は静かだった。


「わたし、知らないところで決められるのは嫌です」


 澄香が息を呑む。


 俺も驚いた。


 リセが、自分の嫌だを口にした。


 小さく、でもはっきりと。


「リセ」


「怒る練習中なので」


 リセは少しだけ困ったように笑った。


「これ、怒れてますか?」


 澄香は唇を噛んだ。


 抱きしめたいのを堪えるような顔をしている。


「……怒れています」


「よかった」


「でも、今日はだめ」


 澄香は言った。


「あなたの体調では無理です」


 リセは少し不満そうだったが、熱のせいか、それ以上は言えなかった。


「では、相良さん」


「なんだ」


「聞いてきてくれますか」


「集まりを?」


「はい」


 リセは真剣な目で俺を見た。


「わたしのことを、わたし抜きで決めようとしている人たちが、何を言うのか」


 その言葉に、澄香が目を伏せた。


「分かった」


 俺は答えた。


「聞いてくる」


「それで、あとで教えてください」


「ああ」


「わたしが忘れても?」


「書いて残す」


 リセは満足そうにうなずいた。


「お願いします、相良さん」


 今度は、ちゃんと名前を呼んだ。


 それだけで、胸の奥に小さな火が灯る。


 まだ消えていない。


 まだ、ここにある。


 夕方、町内会の集まりは公民館で開かれた。


 真白町の公民館は、商店街の外れにある古い建物だった。


 ガラス戸には夏祭りのポスターが貼られている。

 中からは扇風機の音と、人の話し声が聞こえた。


 ナツメが入口で待っていた。


「遅い」


「時間通りだ」


「私が早く来すぎた」


「なら俺は悪くないだろ」


「そうだけど、文句言いたかった」


 ナツメは腕を組んでいた。


 顔はいつもの調子に見えるが、目は緊張している。


「リセは?」


「熱がある。神社で休んでる」


「そっか」


 ナツメは唇を噛んだ。


「……名前、思い出せなかったって?」


「ああ。でも今は呼べる」


「今は、か」


 その言葉は重かった。


 今は呼べる。


 今は覚えている。


 今は、まだ。


 俺たちは公民館の中へ入った。


 畳敷きの広間には、すでに二十人ほどの町の人が集まっていた。


 老人が多い。

 中年の男女もいる。

 港で会った白石の姿もあった。

 橘の祖母も座っている。


 部屋の前方には町内会長らしき老人と、澄香がいた。


 澄香は一人だけ、背筋を伸ばして座っている。


 その姿は強く見えた。


 けれど、膝の上で握られた手が白くなっているのを、俺は見逃せなかった。


 町内会長が咳払いをした。


「では、今年の潮返しの儀について、改めて話をしたいと思います」


 広間が静まる。


「今年の夏は、皆さんもご存じの通り、台風による事故で多くの犠牲者が出ました。家族を亡くされた方々の中には、どうしても最後の声を聞きたいと願う人もいます」


 何人かがうつむいた。


 その悲しみは本物だった。


 会長は続ける。


「潮返しは、真白町に長く伝わる祈りです。残された者が、前を向くための」


「祈りじゃありません」


 澄香が言った。


 声は静かだったが、広間の空気が一瞬で変わった。


「それは、娘に忘れることを強いる儀式です」


「澄香さん、その言い方は」


「事実です」


 澄香は会長を見た。


「姉は潮返しで自分を失いました。町の皆さんは、姉の名前を覚えていません」


 誰も反論しなかった。


 できなかった。


 澄香は言葉を続ける。


「今、同じことがリセに起きています」


 ナツメが隣で息を詰めた。


「昨日まで覚えていたことを、今日忘れている。幼なじみの名前を思い出せない。今朝は、相良さんの名前も分からなくなりました」


 町の人たちの視線が俺に向いた。


 好奇心ではない。


 後ろめたさと、恐れ。


 俺は何も言わず、澄香の言葉を聞いた。


「それでもまだ、潮返しを望みますか」


 広間は静まり返った。


 最初に口を開いたのは、黒い喪服のような服を着た女性だった。


 第三章で神社に来ていた人だ。


「……望んではいけないんですか」


 声は震えていた。


「私の夫は、台風の日に亡くなりました。最後に電話がありました。でも、私は出られなかった。仕事中だったから。あとでかけ直せばいいと思ったんです」


 女性は膝の上で手を握りしめた。


「それが最後でした」


 誰も何も言えなかった。


「声が聞きたいんです。何でもいい。怒っていてもいい。さよならでもいい。もう一度だけ、夫の声が聞きたい」


 涙が畳に落ちた。


「それを願うことまで、罪なんですか」


 澄香は唇を噛んだ。


 その問いは、残酷だった。


 願うこと自体を罪だとは言えない。


 大切な人を失った人間が、もう一度だけ声を聞きたいと願うこと。


 それを誰が責められるのか。


 だが、その願いの代償を払うのがリセなら。


 話は別だ。


「願うことは、罪ではありません」


 澄香は言った。


「でも、その願いを娘に背負わせることはできません」


「私たちは、リセちゃんを苦しめたいわけじゃないんです」


 別の老人が言った。


「ただ、昔からそうやって町は救われてきた」


「それが間違いだったと言っています」


「間違いなら、今まで救われた人たちは何だったんですか」


 声が少し荒くなる。


「わしは潮返しで母の声を聞いた。あれがなければ、今まで生きてこられなかったかもしれん。あれを間違いと言われたら、救われたわしらはどうなる」


 澄香は言葉に詰まった。


 そこへ、白石が口を開いた。


「救われたことと、誰かに犠牲を払わせたことは、別や」


 広間の視線が白石に集まる。


 白石は腕を組み、苦い顔で続けた。


「俺も潮返しで息子の声を聞いた。あれで救われた。それは本当や」


 白石の声は低かった。


「でも、その裏で天宮の娘が壊れていったことも本当や。俺はそれを、長いこと見ないふりしとった」


 橘の祖母がうなずいた。


「私もたい」


 彼女は小さな身体をまっすぐにして言った。


「じいさんの声を聞けたことを、今でもありがたいと思っとる。けど、そのために汐里ちゃんが何を失ったか、私はちゃんと見とらんかった」


 汐里。


 その名前が、公民館の中で口にされた。


 何人かが顔を上げる。


 思い出したわけではないのだろう。


 けれど、その名前は確かに空気を震わせた。


「天宮汐里ちゃん」


 橘の祖母は、噛みしめるように名前を呼んだ。


「澄香さんのお姉さんたい。私たちは、その名前を忘れとった。助けてもらったのに、忘れとった」


 会長が顔を伏せた。


 広間に、重い沈黙が落ちる。


 その沈黙を破ったのは、ナツメだった。


「リセは道具じゃない」


 声は震えていた。


 でも、はっきりしていた。


「リセは、変なこと言って、アイス好きで、すぐ笑って、ほんとは海に行きたくて。でも怒り方を忘れかけてる、普通の女の子です」


 ナツメは部屋の人たちを見回した。


「天宮の娘とか、町のためとか、そういう言葉でリセを見ないでください」


 誰も答えなかった。


 ナツメは俺をちらりと見た。


 次はお前だ、と言われた気がした。


 俺は立ち上がった。


 公民館の空気が、ずしりと肩に乗る。


 俺はこの町の人間ではない。


 昨日来たばかりの部外者だ。


 それでも、言わなければならない気がした。


「俺は、潮返しで救われた人たちのことを責められません」


 最初にそう言った。


 白石が俺を見る。

 橘の祖母も、澄香も、ナツメも。


「大切な人を亡くして、最後の声を聞きたいと思うことは、間違いじゃないと思います。俺だって、死んだ祖母に謝れるなら、謝りたい」


 祖母の仏壇を思い出す。


 遅くなって、ごめん。


 もう届かない謝罪。


「でも」


 俺は続けた。


「誰かの後悔を埋めるために、別の誰かの人生を削っていい理由にはならない」


 広間が静まり返る。


「リセは町のために生まれてきたんじゃない。誰かの最後の言葉を返すための装置じゃない。天宮の娘である前に、天宮リセという一人の人間です」


 自分で言いながら、手が震えていた。


 でも、止まらなかった。


「リセは海に行きたがっています。母親と一緒に。たったそれだけの願いを、まだ叶えられていない子です」


 澄香が目を伏せた。


「そんな子に、町の後悔を全部背負わせるんですか」


 誰も答えない。


 俺は息を吸った。


「もし、潮返しが本当に祈りなら。誰かを救うものなら。まず、リセを救うべきじゃないんですか」


 その言葉が、自分の中から出てきた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 借り物ではない。


 どこかで見た台詞でもない。


 俺がこの町で見て、聞いて、痛いと思ったものから出てきた言葉だった。


 長い沈黙が続いた。


 やがて、喪服の女性が小さく泣き出した。


「ごめんなさい」


 彼女は言った。


「分かってるんです。リセちゃんに背負わせちゃいけないって。でも、どうしても、声が聞きたくて」


 それは責められるべき弱さではなかった。


 ただ、どうしようもなく人間だった。


 澄香は立ち上がり、女性の前に座った。


「謝らないでください」


「でも」


「あなたの悲しみは、本物です」


 澄香の声は柔らかかった。


「私も、姉の声を聞きたいと思うことがあります。どうして海へ行ったのか。最後に何を思ったのか。聞きたいと思う夜があります」


 女性は顔を上げた。


「でも、リセを差し出してまで聞きたいとは、もう思いたくないんです」


 澄香の目にも涙が浮かんでいた。


「そう思える母親でいたいんです」


 その言葉に、広間の空気が少しだけ変わった。


 誰かが泣いている。

 誰かがうつむいている。

 誰かが、ようやく自分たちが何を望んでいたのかを見つめ始めている。


 会長は長く沈黙していたが、やがて言った。


「今年の潮返しの儀は、行わない」


 広間がざわめいた。


 会長は目を閉じたまま続ける。


「少なくとも、町内会として天宮家に願いを求めることはしない」


 澄香が息を吐いた。


 ナツメが小さく拳を握る。


 だが、その瞬間。


 公民館の外から、鈴の音が聞こえた。


 からん。


 全員が動きを止めた。


 潮見神社の鈴の音だった。


 ここは神社から離れている。


 普通なら聞こえるはずがない。


 それでも、その音は確かに響いた。


 からん。


 二度目。


 広間の蛍光灯が、かすかに揺れた。


 窓の外から、潮の匂いが流れ込んでくる。


 誰かが小さく悲鳴を上げた。


「始まった」


 白石が低く言った。


「何が」


 俺が聞く。


「潮が返る」


 澄香が立ち上がった。


 顔色が真っ白だった。


「リセ」


 その名前を聞いた瞬間、俺は走り出していた。


 ナツメも続く。


 澄香も、白石も、何人かの町の人も後を追ってきた。


 外に出ると、空はすっかり暮れていた。


 さっきまで夕方だったはずなのに、町は濃い藍色に沈んでいる。


 海の方から、異様な風が吹いていた。


 潮の匂いが強い。


 波の音が、町の奥まで押し寄せてくる。


 からん。


 鈴が鳴る。


 潮見神社の方から。


 俺たちは走った。


 商店街を抜け、坂を上り、石段へ向かう。


 石段の下に着いた時、上の方から淡い光が漏れていた。


 提灯の光ではない。


 もっと青白い、海の底のような光。


「リセ!」


 澄香が叫んだ。


 返事はない。


 俺たちは石段を駆け上がった。


 息が切れる。

 足が痛い。

 でも、止まれない。


 境内にたどり着いた時、そこには見たことのない光景が広がっていた。


 拝殿の鈴が、誰も触れていないのに揺れている。


 からん。

 からん。


 境内一面に、薄い霧のようなものが漂っていた。

 潮の匂いがする。

 まるで海が、神社まで上がってきたみたいだった。


 その中心に、リセが立っていた。


 白い寝間着のまま。

 裸足で。

 長い髪を風に揺らして。


「リセ!」


 澄香が駆け寄ろうとする。


 だが、見えない壁に阻まれたように足を止めた。


 リセの周りに、声が集まっていた。


 ありがとう。

 ごめん。

 帰りたい。

 待っていて。

 会いたい。

 もう一度だけ。

 許して。

 聞こえますか。


 いくつもの声が、波のように重なっている。


 町の人たちの後悔。


 海に沈んだ言葉。


 返る場所を求める声。


 リセはその中心で、静かに目を閉じていた。


「やめろ!」


 俺は叫んだ。


 リセの瞼が震える。


 ゆっくりと目を開く。


 こちらを見る。


 だが、その目には焦点が合っていなかった。


「……誰」


 たった二文字。


 それだけで、胸が裂けるようだった。


「相良だ」


 俺は叫んだ。


「相良透。昨日、お前のことを書いた。アイス食べた。商店街行った。怒る練習をした」


 リセはぼんやりと俺を見る。


「さがら、さん」


「そうだ」


「わたし……何をしてますか」


「潮返しだ」


 澄香が震える声で言った。


「リセ、だめ。受けてはだめ」


 リセは母を見る。


「お母さん」


 その呼び方には、まだ温度があった。


 澄香は涙を流しながら手を伸ばす。


「戻ってきて」


「お母さん」


「お願い。戻ってきて」


 リセは少しだけ笑った。


「みんな、泣いてます」


 境内に集まった町の人たちが、声を失った。


 喪服の女性も、白石も、橘の祖母も、会長も。


 リセはその人たちを見た。


「声が、聞こえます」


「聞かなくていい!」


 ナツメが叫んだ。


「リセ、聞かなくていい! そんなの聞かなくていい!」


「ナツメちゃん」


 リセは少しだけ首をかしげた。


「怒ってますか?」


「怒ってるよ!」


 ナツメは泣きながら叫んだ。


「めちゃくちゃ怒ってる! 勝手に背負おうとするな! 笑ってごまかすな! 忘れるな! 私のこと忘れるな!」


「ナツメちゃん」


「何回でも自己紹介するって言ったけど、本当は嫌だよ! 忘れられたくないよ!」


 ナツメの叫びに、リセの表情が揺れた。


 声の波が強くなる。


 鈴が激しく鳴る。


 からん。

 からん。

 からん。


 リセは胸を押さえた。


「でも」


 彼女は言った。


「誰かが泣かなくてすむなら」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は前へ出た。


「違う」


 声が出た。


 自分でも驚くほど、はっきりと。


「それは違う」


 リセが俺を見る。


「相良さん」


「お前が消えたら、俺たちが泣く」


 リセの目が揺れた。


「町の人たちが泣かなくてすむ代わりに、澄香さんが泣く。ナツメが泣く。俺も泣く。そんなの、ただ泣く人間を入れ替えてるだけだ」


 リセは何も言わない。


 声の波が、彼女の周りで渦を巻く。


「お前は、町のために生まれてきたんじゃないだろ」


 俺は一歩ずつ近づいた。


 見えない壁のような圧力がある。


 耳の奥で、たくさんの声が叫んでいる。


 ありがとう。

 ごめん。

 会いたい。

 助けて。


 その声は悲しくて、重くて、痛かった。


 でも、それでも。


「リセ」


 俺は叫んだ。


「お前の願いは何だ」


 リセは目を見開いた。


「わたしの、願い」


「そうだ」


「わたしは」


 声が震える。


「わたしは、みんなの」


「違う!」


 俺は叫んだ。


「町の願いじゃない。天宮の役目じゃない。お前自身の願いだ」


 リセは胸を押さえた。


 苦しそうに息をする。


「わたし、自身の」


「思い出せ」


「分からない」


「海だ」


 俺は言った。


「お前は海に行きたいって言った」


 リセの目が揺れる。


「海」


「母親と一緒に」


「お母さんと」


「そうだ。お前は奇跡を起こしたいんじゃない。誰かの声を返したいんじゃない。お母さんと一緒に、海を見に行きたいんだろ!」


 リセは澄香を見た。


 澄香は泣きながら頷いた。


「リセ」


 澄香は言った。


「行こう」


 リセの表情が止まる。


「え?」


「海へ行こう」


 澄香の声は震えていた。


 でも、確かだった。


「怖い。今でも怖い。あなたを失うのが怖い。海が怖い。姉さんのことを思い出すのが怖い」


 澄香は涙を拭わずに続けた。


「でも、あなたを閉じ込めたまま失う方が、もっと怖い」


「お母さん」


「行こう、リセ」


 澄香は手を伸ばした。


「お母さんと一緒に、海を見に行こう」


 リセの顔が、くしゃりと歪んだ。


 泣きそうな、笑いそうな、子供のような顔。


「わたし」


 声がかすれる。


「それ、言いましたか」


「言った」


 俺はノートを開いた。


 震える手で、何度も書いたページを見せる。


 ――天宮リセは、母と一緒に海へ行きたいと言った。


「ここに書いてある」


 リセはその文字を見た。


 読めているのかは分からなかった。


 でも、何かが届いたのだと思う。


 彼女の目から涙が落ちた。


「そうですか」


 リセは小さく言った。


「わたし、ちゃんと言えたんですね」


「ああ」


「よかった」


 その瞬間、声の波が一段と強くなった。


 まるで、町の願いがリセを逃がすまいとしているようだった。


 鈴が鳴る。


 からん。

 からん。

 からん。


 町の人たちが悲鳴を上げる。


 リセの身体がふらついた。


 澄香が叫ぶ。


「リセ!」


 俺はポケットから、汐里の鈴を取り出した。


 赤い組紐に結ばれた、小さな銀の鈴。


 リセが海へ行く時、渡してください。


 澄香に託されたもの。


 俺は見えない圧力を押し返すように、一歩踏み込んだ。


 頭の奥で、たくさんの声がうるさい。


 許して。

 会いたい。

 帰りたい。


 それでも、俺はリセへ手を伸ばした。


「リセ!」


 彼女がこちらを見る。


「これ、汐里さんからだ」


「しおり」


 その名前に、リセの目が揺れた。


 覚えていないはずの名前。


 でも、どこかに残っている名前。


「お前が海へ行く時につけてほしいって」


 リセは震える手を伸ばした。


 俺は鈴の紐を彼女の手首に結んだ。


 ちりん。


 小さな音が鳴った。


 その瞬間、境内に満ちていた声が、ほんの少しだけ静まった。


 リセは自分の手首を見た。


 鈴が夕闇の中で淡く光っている。


「短い命だったね」


 リセがつぶやいた。


 俺は息を呑んだ。


「でも、幸せだったね」


 その言葉は、リセのものなのか。

 汐里のものなのか。


 分からなかった。


 澄香が泣き崩れる。


「姉さん」


 その呼び声に、風が吹いた。


 海の匂いが境内を包む。


 声の波の中に、ひとつだけ柔らかい声が混じった気がした。


 澄香。


 澄香は顔を上げた。


「姉さん?」


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 今度は神社の大鈴ではなく、リセの手首の小さな鈴だった。


 リセは目を閉じていた。


 その頬に、涙が伝っている。


「お母さん」


「リセ」


「誰かが、言ってます」


 澄香が息を止める。


「何て」


 リセはゆっくり目を開けた。


「もう、いいよって」


 澄香の顔が歪んだ。


「澄香は、もう泣かなくていいよって」


 それは本当に汐里の声だったのか。


 潮返しが見せた幻なのか。


 リセがどこかに残っていた記憶の欠片を拾っただけなのか。


 俺には分からない。


 でも、澄香には届いた。


 彼女はその場に膝をつき、顔を覆って泣いた。


 長い間、堰き止めていたものが壊れるように。


「姉さん」


 泣きながら、何度も名前を呼ぶ。


「汐里姉さん」


 町の人たちも、その名前を聞いていた。


 天宮汐里。


 忘れられていた名前が、潮返しの夜にもう一度呼ばれている。


 声の波が少しずつ弱まっていく。


 リセはふらつきながら、澄香へ手を伸ばした。


 今度は、見えない壁はなかった。


 澄香がその手を掴む。


 強く、強く。


「リセ」


「お母さん」


「もういい。もう何も受けなくていい」


「でも、みんな」


「みんな、自分で抱えていく」


 澄香は町の人たちを振り返った。


「そうでしょう」


 白石が深く頭を下げた。


「すまんかった」


 橘の祖母も頭を下げる。


「ありがとう。そして、ごめんなさい」


 喪服の女性は泣いていた。


 それでも、彼女は言った。


「リセちゃん、ごめんなさい」


 リセは困ったように笑った。


「今日は、謝罪セールですね」


 誰も笑えなかった。


 でも、ナツメだけが泣きながら言った。


「そうだよ。全品半額だよ」


「アイスもですか?」


「アイスは別」


「けち」


 リセは小さく笑った。


 その笑顔は弱々しかったが、確かに彼女のものだった。


 潮見神社の大鈴が、最後に一度だけ鳴った。


 からん。


 それは、終わりを告げる音のようだった。


 境内を包んでいた霧が薄れていく。

 潮の匂いが遠ざかる。

 声も、波のように引いていく。


 夏の夜の音が戻ってきた。


 蝉の声。

 風鈴の音。

 遠くの祭囃子。


 リセは澄香に支えられながら立っていた。


 俺はノートを抱えたまま、その場に座り込みそうになる。


 力が抜けた。


 終わったのか。


 そう思った。


 だが、リセがこちらを見た。


 そして、少しだけ首をかしげた。


「えっと」


 嫌な予感がした。


「あなたは」


 空気が凍る。


 澄香がリセを見る。


 ナツメが口元を押さえる。


 リセは俺を見て、困ったように笑った。


「すみません。名前が、また」


 俺は息を止めた。


 さっきまで呼べていた。


 相良さんと。


 でも、潮返しを拒んでも、完全に守れたわけではなかった。


 リセはすでに、何かを失っている。


 俺は震える声で言った。


「相良透」


「さがら、とおる」


 リセは繰り返す。


「相良さん」


「ああ」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「でも」


「謝るな」


 少し強い声になった。


 リセは驚いた顔をしたあと、小さく笑った。


「怒ってますか?」


「怒ってる」


「わたしの代わりに?」


「ああ」


「じゃあ、お願いします」


 リセは目を細めた。


 その身体がふらりと傾く。


 澄香が慌てて支えた。


「リセ!」


「眠いです」


「すぐ休みましょう」


「その前に」


 リセは母の手を握った。


「お母さん」


「なに」


「海、行けますか」


 澄香は泣きながら頷いた。


「行こう」


「本当ですか」


「本当」


「約束ですか」


「約束」


 リセは安心したように笑った。


「よかった」


 それだけ言って、彼女は意識を失った。


 澄香の叫び声が境内に響いた。


 その夜、リセは高熱を出した。


 医者を呼び、澄香とナツメがつきっきりで看病した。


 俺は一度祖母の家へ戻った。


 本当は神社に残りたかったが、澄香に言われた。


 今日のことを書いてください、と。


 リセが忘れたものを、残してください、と。


 俺はノートを開いた。


 手が震えて、最初の一文字を書くまでに時間がかかった。


 何から書けばいいのか分からない。


 町内会の集まり。

 亡くした人の声を聞きたい女性。

 救われたことを否定できない白石。

 汐里の名前を呼んだ橘の祖母。

 リセは道具じゃないと叫んだナツメ。

 澄香が、リセを海へ連れていくと言ったこと。


 そして、潮見神社の夜。


 声。

 霧。

 鈴。

 町の願い。

 リセの涙。

 汐里の鈴。


 俺は書いた。


 書いて、書いて、書き続けた。


 夜が更けても、手を止めなかった。


 これはもう、俺の物語ではなかった。


 でも、俺が書かなければならない物語だった。


 リセが失ったもの。

 澄香が抱えてきたもの。

 ナツメが叫んだもの。

 町の人たちがようやく向き合ったもの。


 その全部を、忘れないために。


 ノートのページが埋まっていく。


 途中で何度も、涙が紙に落ちた。


 泣いている自覚は遅れてやってきた。


 俺は泣いていた。


 リセが俺の名前を忘れたことが悲しかった。

 澄香が汐里の名前を呼んだことが痛かった。

 ナツメの叫びが胸に残っていた。

 町の人たちの弱さを、完全には憎めないことも苦しかった。


 そして何より。


 リセが、まだ海へ行けていないことが、たまらなく悲しかった。


 夜明け前、俺は最後のページにこう書いた。


 ――潮返しの夜、天宮リセは町の願いを背負わなかった。


 少し考えてから、書き直す。


 ――潮返しの夜、天宮リセは町の願いではなく、自分の願いを選んだ。


 その一文を見て、ようやく少しだけ息ができた。


 窓の外が白み始める。


 蝉はまだ鳴いていない。

 町は眠っている。


 机の上には、汐里の鈴がない。


 今はリセの手首にある。


 彼女が海へ行くための、小さな目印として。


 電話が鳴ったのは、朝焼けが空を染め始めた頃だった。


 俺は飛びつくように受話器を取った。


「はい」


『相良さん』


 澄香の声だった。


 疲れ切っている。


 でも、昨日よりは少しだけ落ち着いていた。


「リセは」


『熱はまだあります。でも、落ち着いています』


 俺は息を吐いた。


『ただ』


 澄香の声が揺れた。


『記憶は、かなり抜けています』


「……そうですか」


『ナツメさんのことは分かります。私のことも。でも、昨日の夜のことはほとんど覚えていません』


「俺のことは」


 聞くのが怖かった。


 電話の向こうで、澄香が沈黙する。


 それだけで答えは分かった。


『名前を伝えれば、呼べます』


「はい」


『でも、自分からは』


「分かりました」


 喉の奥が詰まった。


『相良さん』


「はい」


『今日の夕方』


 澄香は言った。


『リセを海へ連れていきます』


 俺は言葉を失った。


『もう、待てません。あの子が海へ行きたいという気持ちまで忘れてしまう前に』


「行きます」


『お願いします』


 電話が切れた。


 俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 窓の外では、朝焼けが広がっている。


 真白町の屋根が、薄い橙色に染まっている。


 その向こうに、海があった。


 リセがずっと行きたがっていた場所。


 汐里が最後に向かった場所。


 澄香がずっと恐れていた場所。


 今日、そこへ行く。


 母と娘が。


 ようやく。


 俺はノートを閉じた。


 表紙に手を置く。


 このノートには、忘れていく夏が詰まっている。


 でも、まだ終わっていない。


 最後に書くべき景色が残っている。


 リセが初めて海を見る景色。


 澄香が娘の手を握って、海へ向かう景色。


 そして、たぶん。


 この物語が、まほろばへたどり着く景色。


 外で、最初の蝉が鳴いた。


 夏の終わりが、すぐそこまで来ていた。


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